神奈川と親鸞 第十四回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑷ 宇都宮頼綱➁―法然の門弟―
宇都宮頼綱画像。京都市左京区・三鈷寺蔵
北条泰時を支えた宇都宮頼綱は、法然最晩年の有力な俗弟子であった。
元久元年(一二〇五)、頼綱は本拠の下野国から国境を越えて常陸国笠間郡に攻め込んだ。笠間郡は温暖かつ農産物豊かな地で、宇都宮氏は十年来支配下に置くことを狙っていたのである。その侵攻が成功しつつある途中で、頼綱は突然鎌倉の北条氏の内紛に巻き込まれ、将軍に反逆しようとしているとして一族全滅の危機にさらされることになった。
頼綱は北条氏との和解を他の親しい豪族に依頼しつつ、自分は家来数十人と共に出家し、髻を執権になったばかりの北条義時の屋敷に届け、やっと危機を乗り切ることができた。
頼綱はひとまず表舞台から姿を消し、京都に上って法然に入門した。法名は実信房蓮生であった。熊谷直実の場合と同様、武士として人を殺さなければ生きていけない罪悪感と、来世は地獄という恐怖を救ってもらえると思ったからであろう。
頼綱引退の元久元年は、三十三歳の親鸞が法然の主著で秘書扱いだった『選択本願念仏集』の閲覧・書写を許された年である。何百人もいた門弟の中で、閲覧を許された者は十人に満たない。その中の一人、若手の俊秀親鸞のことも、頼綱は注目していたであろう。この年、頼綱も二十八歳の青年であった。
建暦元年(一二一二)一月、法然が八十歳で亡くなると、頼綱はその高弟の証空の指導を受けることになった。証空は、強大な権力を振るって九条兼実を引退に追い込んだ内大臣久我通親の息子(養子)で、九歳の時から法然に師事し、法然が『選択本願念仏集』を執筆する時にはそれを助けて働いた。現在では浄土宗西山派の派祖として知られている。
後の嘉禄三年(一二二七)、比叡山の悪僧たちが法然の墓を暴き、その遺骸を賀茂川に流そうとした事件があった(嘉禄の法難)。この時、法然の遺弟たちが夜中にこっそり法然の遺骸を掘り出し、他の場所に移して難を逃れた。その時、頼綱は数百期騎の兵力でその移動を守護している(『拾遺古徳伝絵』)。その中には弟の塩谷朝業もいた。
神奈川と親鸞 第十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑷ 宇都宮頼綱➀―北条泰時を支える―
宇都宮辻子幕府あとの石碑。鎌倉市小町
前回に述べた塩谷朝業の兄の宇都宮頼綱は、執権北条泰時を支えた政治家であった。泰時は後になってこそ「心正しく」「人を孕み」、北条氏の長期政権のもとを作ったと評価された(北畠親房『神皇正統記』)。しかし元仁元年(一二二四)の父義時没の時には、薄氷を踏む思いだった。本来の跡継ぎは弟の政村であり、朝時であったからである。それを伯母の政子と、事務官僚の代表である大江広元が抑え込んで泰時後継が実現したのである。
ところが翌年の嘉禄元年、政子と広元が相次いで亡くなった。泰時は叔父の時房をもう一人の執権(通称は、「連署」)に迎え、有力御家人や事務官僚・北条一族を集めた評定衆を設置し、合議制で危機を乗り切ろうとした。承久三年(一二二一)の乱では泰時は時房と共に京都へ攻め込んで勝利し、そのまま泰時は六波羅探題北方、時房は同南方として三年間協力して朝廷対策に当たった。泰時にとって時房はもっとも信頼できる親族であった。
泰時は、時房を連署に迎えた年、幕府の役所を当初からの大蔵から宇都宮辻子へ移した。宇都宮辻子は若宮大路の東側に当たる小道である。ここは北関東の大豪族宇都宮頼綱が祖父の朝綱以来の屋敷地を持っていた場所であった。
頼綱は、下野国南部・中部から常陸国笠間郡を領し、妻は北条義時の妹すなわち泰時の叔母であった。頼綱の母は京都の貴族で、彼は京都にも勢力を有していた。嘉禄二年(一二二六)、泰時はその孫で二歳の経時と、頼綱の同い年の孫娘とを婚約させている。泰時は、北条氏以外では宇都宮頼綱をもっとも頼みにして難局を乗り切ろうとしたのである。
┌北条義時―泰時―時氏―経時
└――女子 ┃
┣―泰綱――――女子
宇都宮頼綱
その頼綱は法然最晩年の熱心な門弟で、親鸞を常陸稲田に招いた人物でもあった。
神奈川と親鸞 第十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑶ 塩谷朝業➁―法然の遺弟―
源実朝坐像。甲府善光寺蔵
承久元年(一二一九)一月、将軍源実朝は鶴岡八幡宮で暗殺された。塩谷朝業は、主君であり親しい友でもあった実朝を失って悲しみ、領地の下野国塩谷郡に戻って出家した。
朝業は元久元年(一二〇五)年に宇都宮頼綱が下野国から常陸国笠間郡に攻め込んだ時、後半の指揮官として笠間占領を完成させた。以後、朝業が笠間経営にあたった。九年後、親鸞は越後から笠間郡の稲田郷に入った。親鸞は朝業と交流があったはずである。
出家の翌年、朝業は京都に上り、法然の門弟である善慧房証空に入門して念仏を学ぶことになった。法名は信生である。それは兄の頼綱が法然の没後、証空の門に入って指導を受けていたという由緒によるだろう。ただし朝業は法然の没後の門弟としての意識が強かった。すると、朝業は親鸞の弟弟子ということになる。また後のことであるが、朝業の三男朝貞は出家して親鸞の門弟になり、賢快と名のったという。
和歌に優れていた朝業には、『信生法師集』という歌集がある。その前半は旅日記で、『信生法師日記』と呼ばれている。それによれば、嘉禄元年(一二二五)二月、朝業は京都を出て鎌倉に赴いた。幕府では執権義時が前年に亡くなり、長男の泰時が跡を継いでいた。朝業は北条政子の許可を得て、持仏堂で実朝の念仏供養をしている。鎌倉滞在の間に泰時の依頼を受けた気配で、次に朝業が向かったのは信州であった。そこで前年に泰時によって流されていた伊賀光宗に会っている。
義時没後、武士の慣行によれば、跡継ぎとなるべきは正妻の嫡男政村二十歳であった。ただし前妻の嫡男朝時三十二歳も名のりを上げていた。しかし政子や事務官僚の支持を受けた、政治にも軍事にも優れた業績を上げていた泰時四十二歳が二人を抑えて執権職に就いた。その際、政村の伯父で後見役だった光宗を信州に追いやっていたのである。
まもなく光宗は鎌倉に呼び戻され、政治に復帰した。幕府の安定を望んだ泰時の方針であった。光宗の様子を見に行った朝業は、泰時の信頼を得ていたのである。
神奈川と親鸞 第十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑶ 塩谷朝業―源実朝の和歌の師―
塩谷朝業画像。写真中央の僧侶姿。『拾遺古徳伝絵』(茨城県那珂市・常福寺蔵)より。
建暦二年(一二一二)二月一日、鎌倉の将軍源実朝は次の和歌を塩谷朝業という御家人に贈った。近習の和田朝盛に持たせて、しかし「自分が贈ったとはいうな」と命じて。
君ならで 誰にか見せむ わが宿の
軒端ににほふ 梅のはつ花
「あなた以外の、いったい誰に見せましょうか。私の家の軒端で匂う、今年初めて咲いた梅の花を」。朝業はすぐ実朝の贈歌と見破り、次の和歌で返した。
うれしさも 匂も袖に 余りけり
我為おれる 梅の初花
「私の着物の袖にあまるほどのよい匂いとうれしさをいただきました。あなたが私のために折ってくださった、今年初めて咲いた梅の枝から」(『吾妻鏡同日条』)。
朝業は実朝の和歌の師匠であった。この時実朝は二十一歳、朝業は十歳あまり年上、若い二人は将軍と御家人という関係を超えて親しく交際していた。
一方、朝業は宇都宮頼綱の実弟で、宇都宮一族を代表して鎌倉に出仕していた。頼綱は下野国南部・中部から常陸国笠間郡を支配する大豪族である。また執権北条義時の妹を妻とし、母は京都の貴族出身という中央政界でも有力な存在であった。しかし元久元年(一二〇五)、その勢力を北条氏に危険視され、一族全滅の危機に追い込まれている。
頼綱は、その危機を自分と家来数十人の出家引退という形で乗り越えた。そして頼綱は京都に上って法然に入門し、熱心な専修念仏者となった。法名は実信房蓮生であった。
頼綱に替わって同母の弟塩谷朝業が幕府に出仕したが、宇都宮惣領としての立場は頼綱が維持していた。兄弟は終生仲たがいすることなく、方策を相談し合って宇都宮一族の発展に努力した。その方策の一つが、北条義時が盛り立てる将軍実朝に接近することであった。しかし当初の意図を超えて、実朝と朝業は親しい間柄になったのである。
神奈川と親鸞 第十回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑵ 北条政子➁―法然からの書状―
地蔵菩薩像。北条政子第七回忌の供養のために造られたと伝えられる。静岡県伊豆の国市・願成就院蔵
法然の書状の一通に、「鎌倉の二品比丘尼に信ずるご返事」と呼ばれている書状がある。「鎌倉の二品比丘尼」が北条政子のことで、「黒谷上人」が法然である。法然の自筆は残っておらず、元亨元年(一三二三)年版の『黒谷上人和語灯録』によって伝えられている。
政子は夫が亡くなってから出家し、承久元年(一二一九)に朝廷から従二位に叙せられた。法然は建暦二年(一二一二)に亡くなっているので、本書状はその前のものである。
そのころ政子は、夫頼朝と三人の子どもたちへの追善供養とともに、弟の義時と組んで北条氏勢力の維持と発展に努めていた。承久三年(一二二一)の承久の乱においても、後鳥羽上皇との戦いに尻込みする武士たちを正面から鼓舞しなければならなかった。
本書状の最初に、
くまがへの入道、つのとの三郎は無智のものなればこそ、余行をせさせず、念仏ばかりおば、
法然房はすゝめたれと申候なる事、きわめたるひがごとにて候也。
「熊谷入道(直実)、津戸三郎(為守)は無知の者なので他の難しい行をさせず、簡単な念仏だけを、法然房は勧めているのだろうという者がいますが、それはまったくの心得違いです」とある。津戸三郎為守とは武蔵国荏原郡の武士である(東京都国立市あたり)。
続いて書状では、
弥陀の(中略)大願はあまねく一切衆生のため也。有智・無智、善人・悪人、
持戒・破戒、貴賤・男女をもへだてず。(中略)たゞ念仏ばかりこそ現当の祈祷とはなり候へ。
「阿弥陀仏の大願はすべての人のためにあるのです。ただ念仏を称えることだけが現世と来世にわたって利益を蒙ることができます」と述べ、
御こゝろざし金剛よりもかたくして、一向専修の御変改あるべからず。
「念仏の気持を堅固に維持して、ひたすら念仏を称えることをお止めにならないように」と結んでいる。法然は奮闘する政子に激励の書状を送ったのである。
神奈川と親鸞 第九回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑵ 北条政子➀―夫と四人の子を失う―
北条政子坐像。夫と4人の子をすべて失いながら、尼将軍として鎌倉幕府を支え続けた。鎌倉市・安養院蔵
鎌倉幕府を創立した源頼朝の妻北条政子は、夫と四人の子女にすべて先立たれている。
政子と頼朝との間の第一子で長女の大姫は、治承四年(一一七九)ころの生まれ、寿永二年(一一八三)に従兄弟で十歳の清水義高と婚約した。義高は木曽義仲の嫡男で、鎌倉に送られてきていた。しかし翌年、義仲は頼朝に殺され、大姫の侍女たちが逃がした義高も、武蔵北部の入間川の河原で殺された。大姫は、仲のよかった義高の死を知ってショックを受け、以後ずっと病気がちとなり、十九歳で亡くなった。
第二子で長男の頼家は寿永元年(一一八二)の生まれ、その誕生は頼朝にも北条氏にも大歓迎された。しかし頼家は乳人比企能員一族に取り込まれ、母政子や祖父の北条時政を敵視するようになった。決心した政子と時政は、建久十年(一一九九)一月に頼朝が亡くなった後を受けていた頼家を降ろし、頼家の息子もろとも比企氏を滅ぼし、建仁二年(一二〇三)には頼家を伊豆修善寺で殺している。
第三子で二女の三幡(万寿)は文治三年(一一八七)の生まれ、頼朝は後鳥羽上皇の妃にするべく政治的折衝を重ねた。それが実現しないうちに建久十年、頼朝は亡くなった。また、三幡も重病に陥った。なかなか治らないので、京都に大変な名医がいると聞き、政子は上皇に頼んでその医者を送ってもらった。しかし三幡の病気は治らず、医者が京都に帰ったあとで亡くなった。どうやら、毒殺された気配である。
第四子で二男の実朝は建久二年(一一九二)の生まれ、兄頼家の跡を継いで第三代将軍になったが、承久元年(一二一九)に兄の遺児の公暁に鶴岡八幡宮で殺されている。その公暁もすぐさま殺された。
夫と四人の子に先立たれた政子の心境はいかなるものであったろうか。当時の人たち一般のように、五人の極楽往生を願わずにはいられなかったであろう。彼女は、法然に手紙を送って念仏の教えを乞うている。
神奈川と親鸞 第八回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち ⑴熊谷直実➁―法然に救われる―
法然像。向かって右に顔を傾けているのは、まず相手の話を聞いてあげようという気持ちを示している。『拾遺古徳伝絵』より。茨城県鉾田市・無量寿寺蔵
源頼朝のもとを飛び出し、京都に走った熊谷直実。直実は極楽往生を保証してくれるらしい吉水草庵の法然を訪ねた。この時直実は五十歳過ぎ、武士として人殺しを重ねてきた自らの悪行に慄然としていた。この罪によって地獄に堕ちるに違いない。
会ってくれた法然は、「いままでの悪行がどれだけ重いかとは関係なく、念仏さえ称えれば往生しますよ」と答えた。これを聞いた直実は「さめざめと泣」いたという。それは、
手足をもきり命をもすててぞ、後生はたすからむずるぞとうけ給はらんずらんと存ずるところに、ただ念仏だにも申せば往生するぞと、やすやすと仰をかぶり侍れば、あまりにうれしくてなかれ侍る。 (『法然聖人行状画図(四十八巻伝)』。
「手足を切り、命を捨てなければ極楽へ往生できないと仰ると思ったのに、念仏さえ称えれば往生できると軽く言われたので、あまりにうれしく泣けてきました」。直実は法名を法力房蓮生と与えられて熱心な念仏の行者になった。
ある日、吉水草庵で会合があった。遅刻した直実が入ると、多くの門弟がいて親鸞が何かノートに書きつけている。直実が様子を聞くと、親鸞は「極楽往生のためには信不退(阿弥陀仏の本願を信ずること)か、行不退(念仏を数多く称えることによって得られる功徳)が重要か選んでもらっています。聖覚殿と信空殿が信不退の席に入られただけです」と丁寧に答えた。直実は親鸞より三十二歳の年上の兄弟子である。そこまで聞いた直実は、
然者法力もるべからず、信不退の座にまいるべし。 (『親鸞伝絵(御伝鈔)』)
「それなら私も漏れたくない、信不退の席に入りましょう」と言った。他の門弟たちは誰も答えることができないでいる。親鸞は自分の名を信不退の中に書き入れた。少し経って法然も「私も信不退の席に入りましょう」と述べたという。
一本気で熱心な直実は、高声念仏(大きな声で念仏を称え続けること)で亡くなった。死期は立札で予告してあったので、大勢の人たちがそれを見守ったそうである。
神奈川と親鸞 第七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑴ 熊谷直実①―源頼朝のお気に入りー
熊谷直実坐像。直実は一騎当千ながら、兵力は本人と息子のただ二騎だけだった。(『平家物語』)。埼玉県熊谷市・熊谷寺蔵
熊谷直実は、武蔵国村岡の住人で、一騎当千の坂東の荒武者として知られていた。彼は、平安時代末期の保元の乱と平治の乱で、いずれも源義朝に従って京都で戦っている。平治の乱には当時十三歳の源頼朝も参加していた。直実もまだ十九歳の若者で、「熊谷次郎」として『平治物語』に示されている。
二十年余り後に頼朝が当時全盛の平家を倒すために挙兵した時、紆余曲折はあったが、直実も頼朝に従って戦った。一の谷の戦いの後、平家の若武者平敦盛を討った慚愧の念から、「それよりしてぞ、熊谷が発心の思ひはすすみける(出家の思いが強くなった)」と『平家物語』にある話はよく知られている。
「腹悪し(短気)」と評された直実(『真如堂縁起絵巻』)。一本気で、戦争では「軍兵の中に、熊谷次郎直実(中略)は殊に勲功あり」(『吾妻鏡』治承四年十一月六日条)と称賛される直実を、頼朝はことのほか気に入っていた。熊谷郷の地頭職も与えた。ともすれば反抗しがちな関東の大豪族たちの中で、直実は頼朝を主人として立ててくれたからである。
『吾妻鏡』建久三年(一一九一)十月二十五日条によると、直実は頼朝の面前での裁判の場面で敗けそうになり、かっとして部屋を飛び出して出家し、行方も不明になってしまったとある。この時の裁判の相手は久下直光という武士で、直実の叔父、しかも直実の父が早世したので少年の直実を養ってくれた人物であるその叔父と領地の境界争いで揉めて裁判に至ったのである。
頼朝の許可を得ないで出家するのは、奉公の義務を勝手に捨てたことになる。頼朝が怒って熊谷郷を取り上げても不思議ではない。それなのに頼朝は苦笑してすませ、直実を探させた。もとのように自分に仕えさせようとしたのである。幕府運営にあたっては、武官と文官、つまりは軍人と事務官僚が必要である。頼朝は前者の精神を体現している直実を惜しんだのである。しかし直実は、京都へ走り、法然の門に入って念仏の行者となった。
神奈川と親鸞 第六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
三善康信―恵信尼の従兄弟―
三善康信の先祖三善清行(菅原道真の争った平安時代の大学者)の居住後の石碑。京都市下京区・醒泉小学校の校庭
建保二年(一二一四)年、親鸞と恵信尼一家が関東に入ったころ、鎌倉幕府の高官には恵信尼の従兄弟がいた。三善康信と弟の康清である。康信は幕府の重要役所である問注所(裁判を担当)の執事(長官)であったし、康清も公事奉行という重要な職にあった(拙著『親鸞をめぐる人びと』「三善康信」の項と「三善康清」の項。自照社出版、二〇一二年)。
『近世防長諸家系図綜覧』(防長新聞社山口支局、一九六六年)に収められている『椙杜社家家譜』をもとに三善家の系図を示すと次のようになる。
三善為康――康光――康信
│ └康清
└為教――恵信尼
康信は実に優秀な人物で、後白河法皇のお気に入りであった。法皇は、平清盛全盛期から源平の戦い、そして源頼朝の幕府開設に対し、一歩も引かずに貴族の利益を守り切った。法皇の相談相手である蔵人頭は吉田経房という貴族であった。そして経房の下の役職にあり、手足となって働いたのが康信であった。いわば蔵人頭の秘書課長ともいうべきこの役を出納といい、五位の位を持つ貴族が就任したので五位出納と通称された。法律に精通し、人事にも詳しく、優れた交渉能力がある者でなければ務まらない。
平家全滅の二年前の寿永二年(一二八三)、先を見とおした後白河法皇は、頼朝との協力関係を発展させるために、康信を現職のままで鎌倉に送った。頼朝は康信の実力を大いに買い、やがて幕府を開くと重職につけて運営にあたらせたのである。親鸞と恵信尼が関東に入った建保二年(一二一四)、康信はすでに七十五歳の高齢であったが、依然として幕府の重臣であった。
親鸞は放浪するように越後から関東へ入ったのではないし、関東では大豪族宇都宮頼綱一族の保護下にあった。親鸞の活動を「野の聖」などと詠嘆調で美化するのは誤りである。史料では確認できるかぎり、彼の有力門弟は武士たちである。
神奈川と親鸞 前編第5回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞を知るために ⑷ 妻の恵信尼
恵信尼像。石川県白山市・正壽寺蔵
殿のひへのやまにだうそうつとめておはしましけるが、(恵信尼書状第3通)、
「夫の親鸞は(29歳の時に)比叡山で堂僧という仕事をしておられましたが」と、82歳の恵信尼は娘の覚信尼に手紙で書き送っている。「殿」とは夫のことである。親鸞はこの前年に亡くなっている。おそらく親鸞31歳ころ、恵信尼22歳ころに結婚したであろう二人は、以後60年にわたってお互いを妻、夫として意識していた。
恵信尼は親鸞のよき妻であった、というのがいままでの見方であった。私もそれを疑うものではない。ただし、「恵信尼はよく夫に仕えていた」ということではない。当時、現代に近い形で男女はそれぞれ自立していた。家来の主人に対する態度のような、「仕える」ということは望まれていなかった。また、恵信尼は越後の豪族の娘であったという見方も、現在では通用しないであろう。彼女は京都の中級貴族三善為教の娘であった。
恵信尼は京都で親鸞と結婚し、越後流罪にも同行し、関東での20年間にわたる布教活動でも行をともにした。この間、5人の子どもを育て上げた。しかも、恵信尼がいなければ布教の成果は乏しいものになったのではないかと私は考えている。恵信尼はよき妻であった。それは親鸞が信仰の境地を深め、布教の実を上げることにおいてである。
恵信尼の祖父三善為康は、来世の極楽往生を熱心に望んでいた。彼は「往生極楽は信心にあり」と言い、信心に基づいて念仏を称えれていれば「十即十生、百即百生(十人でも百人でも一人も漏れることがなく極楽往生できますよ)」と強く言い切っている。つまり、三善家には信心の念仏の伝統があったのである。また恵信尼は親鸞よりも先に、家族ぐるみで法然の教えを受けていた。つまり恵信尼は親鸞に出会う前から、信心の念仏の何たるかをよく知っていたのである。
恵信尼は貴族である。親鸞も貴族出身である。当時、貴族の妻のあるべき姿は、家事・育児に優れていることではなかった。夫の相談相手になれることであった。親鸞にとってもっともも重要なことは信心の念仏だったから、恵信尼は結婚の最初から心強い妻であったのである。