神奈川と親鸞 前編第9回

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神奈川と親鸞 第九回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴  仲間の念仏者たち⑵ 北条政子➀―夫と四人の子を失う―
北条政子坐像。夫と4人の子をすべて失いながら、尼将軍として鎌倉幕府を支え続けた。鎌倉市・安養院蔵

北条政子坐像。夫と4人の子をすべて失いながら、尼将軍として鎌倉幕府を支え続けた。鎌倉市・安養院蔵

 鎌倉幕府を創立した源頼朝の妻北条政子は、夫と四人の子女にすべて先立たれている。  政子と頼朝との間の第一子で長女の大姫は、治承四年(一一七九)ころの生まれ、寿永二年(一一八三)に従兄弟で十歳の清水義高と婚約した。義高は木曽義仲の嫡男で、鎌倉に送られてきていた。しかし翌年、義仲は頼朝に殺され、大姫の侍女たちが逃がした義高も、武蔵北部の入間川の河原で殺された。大姫は、仲のよかった義高の死を知ってショックを受け、以後ずっと病気がちとなり、十九歳で亡くなった。  第二子で長男の頼家は寿永元年(一一八二)の生まれ、その誕生は頼朝にも北条氏にも大歓迎された。しかし頼家は乳人比企能員一族に取り込まれ、母政子や祖父の北条時政を敵視するようになった。決心した政子と時政は、建久十年(一一九九)一月に頼朝が亡くなった後を受けていた頼家を降ろし、頼家の息子もろとも比企氏を滅ぼし、建仁二年(一二〇三)には頼家を伊豆修善寺で殺している。  第三子で二女の三幡(万寿)は文治三年(一一八七)の生まれ、頼朝は後鳥羽上皇の妃にするべく政治的折衝を重ねた。それが実現しないうちに建久十年、頼朝は亡くなった。また、三幡も重病に陥った。なかなか治らないので、京都に大変な名医がいると聞き、政子は上皇に頼んでその医者を送ってもらった。しかし三幡の病気は治らず、医者が京都に帰ったあとで亡くなった。どうやら、毒殺された気配である。  第四子で二男の実朝は建久二年(一一九二)の生まれ、兄頼家の跡を継いで第三代将軍になったが、承久元年(一二一九)に兄の遺児の公暁に鶴岡八幡宮で殺されている。その公暁もすぐさま殺された。  夫と四人の子に先立たれた政子の心境はいかなるものであったろうか。当時の人たち一般のように、五人の極楽往生を願わずにはいられなかったであろう。彼女は、法然に手紙を送って念仏の教えを乞うている。

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