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法然聖人とその門弟の教学 第10回

法然聖人とその門弟の教学
第10回 「選択の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 『無量寿経』には、法蔵菩薩があらゆるものを救うための願を建てるにあたって、世自在王仏による説法が示されています。それは法蔵菩薩のために、「二百一十億のさまざまな仏の国々に住んでいる人・天の善悪と、国土の勝劣を説いて、法蔵菩薩の願いのとおりに、すべてをお見せになられた」ことでした。この世自在王仏の説法を聴聞した法蔵菩薩は、それら清らかな国土のありさまを詳しくじっくり見て、この上ないすぐれた願を発します。この願は、きわめて静かで、とらわれのない心によってなされたものであり、また五劫という長い間、思いをめぐらして、清らかな行を「摂取」したことによってはじめて成り立つものでした。

 法然聖人は『選択本願念仏集』に、この『無量寿経』の文を引用していますが、同時に『無量寿経』の異訳である『大阿弥陀経』のこの部分の文も引いています。

 ちなみに親鸞聖人は、この『無量寿経』の文に基づいて、『教行信証』「行巻」末の「正信念仏偈」に次のように述べています。

  法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
  建立無上殊勝願 超発希有大弘誓 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方(「正信念仏偈」)

 ところで現存する<無量寿経>の漢訳は、全部で五本ありますが、そのうち『大阿弥陀経』は、『平等覚経』とともに翻訳年代が古い初期無量寿経に区分され、阿弥陀仏の本願が四十八願ではなく、二十四願の経典であることが特徴に挙げられます。

 法然聖人は『無量寿経』で使用されている「摂取」という言葉が、この『大阿弥陀経』では「選択」になっていることを指摘しています。そしてこの「選択」とは、

  このなか、「選択」とはすなはちこれ取捨の義なり。(『選択本願念仏集』)

と、定義づけを行っています。つまり、選択とは「選び取る」とともに「選び捨てる」という意味を兼ね備えた言葉であるのです。その上で、法然聖人は「選択」と「摂取」という言葉は異なるけれども、その意味は同じであるとし、選択とは、不清浄の行を捨てて(選捨)、清浄の行を取る(選取)ことであると述べています。取捨の基準は、あらゆるものが救われる行であるかどうか、にあります。

 これについて法然聖人は、法蔵菩薩のときに誓った阿弥陀仏の願とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜や孝養父母などの諸行を選捨して、専ら仏の名を称えるという「専称仏号」を選取したとして、これを選択であると説いています。

 したがって、法然聖人が主張する「選択」とは、私の選択ではなく、阿弥陀仏による選取・選捨です。それは阿弥陀仏が念仏以外の諸行を何も必要とはしていないということであり、往生のために必要となるのは、念仏のみ(ただ念仏)であるということだったのです。
 このように法然聖人は、選取と選捨の両方の意味が込められた言葉として、「選択」を使用しています。「選択」という言葉を用いながら、阿弥陀仏の本願の救いを明らかにされているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第9回

法然聖人とその門弟の教学
第9回 「総願と別願」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 浄土教の重要な用語に「本願」があります。本願とは、以前からの願いという意味で、菩薩が因位の時(さとりを開くために願を建てて修行している間)におこした衆生救済の誓いをいいます。また、衆生救済のためのまさしく根本となる願という意味でもあります。

 法然聖人はこの本願を考えるとき、総願と別願の二種があることをいいます。総願とは、すべての仏が菩薩の時におこす誓いのことで、「四弘誓願」がこれに当たります。四弘誓願とは、「衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成」という四つの広大な誓いのことです。源信和尚の『往生要集』にも述べられていますが、若干の異同があります。

 武蔵野大学では、週に一度大学礼拝を勤めていますが、そのときに、この四弘誓願の訳を教職員と学生が唱和するようにしています。その訳とは、「いきとし生けるものが幸せになるために(度) わたくしの「ひとりよがり」のこころをきよめ(断) 正しい道理をどこまでもきわめ(学) 生きがいのある楽しい平和の世界をうち立てたい(成)」(山田龍城訳)というものです。

 一方、別願とは、それぞれの仏・菩薩の独自の誓願のことをいい、これによってそれぞれの仏の性格が異なってきます。法然聖人は別願の代表例として、釈迦の五百の大願や薬師の十二の上願とともに、阿弥陀仏の四十八願を挙げています。この四十八願については、

  おほよそ四十八願みな本願なりといへども、殊に念仏をもつて往生の規となす。
                           (『選択本願念仏集』)

と、四十八願はすべて本願というけれども、念仏往生を規範とすることを述べています。念仏往生が誓われた願は、四十八願の中の第十八番目の願(第十八願)であり、これを根本の願として、「本願中の王」と名づけています。それと同時に、法然聖人は第十八願には念仏以外の行(余行)が誓われていないことを強調しています。

 ところで法然聖人は、阿弥陀仏がいつ、どの仏のもとで、本願をおこされたのかという問いを設け、『無量寿経』によって、その答えを導き出しています。ここで指摘しておかなければならないことは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったとき、決して一人で発願し、修行したわけではなかったということです。

 『無量寿経』では、釈尊が阿難に対して、永遠なる過去において、錠光如来が世に出現して、数限りない人びとを教え導き、そのすべてのものにさとりを得させて、世を去られたことから説き始めています。錠光如来とは、釈尊の前生において、釈尊に対し未来に成仏すると予言した仏です。つまり、錠光如来から説き始めることで、釈尊の説法の根源を意味づけた表現となっていると考えられます。

 つづいて、錠光如来をはじめ五十三仏に次いで出現したのが世自在王仏であることが説き明かされます。この世自在王仏の説法を聞いて、心に悦予を懐き、この上ないさとりを求める心をおこしたある国王が、国も王位も捨てて出家修行者の身となり、名のった名前が「法蔵」でありました。

 ここから法蔵菩薩が発願したのは、世自在王仏の説法を聞くことによってなされたものであることがわかります。法蔵菩薩にとって、世自在王仏の存在なくしてはその発願も修行も成立しません。説法者である世自在王仏と聞法者としての法蔵菩薩の関係性が注目された記述となっているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第8回

法然聖人とその門弟の教学
第8回 「百即百生と千中無一」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人が雑行を捨てて、正行を専ら修めるべきことを主張されたのは善導大師の文に基づいています。その文とは、善導大師の『観無量寿経』の見方が示されている『観経疏』と、浄土に往生したいと願う者の実践が説き述べられた『往生礼讃』の文です。

 『往生礼讃』には、生涯にわたって念仏を称える者は、十人いれば十人すべてが浄土に往生し、百人いれば百人すべてが浄土に往生することを説いています。なぜならば、念仏を称える者は、外からのさまざまな妨げがなく、正しい思いに至るからであると述べています。また、阿弥陀仏がすべてを救おうと誓われた本願のこころと一致しており、釈尊の教えそのものであって、仏の言葉にしたがっているからです。

 しかし、正行を捨てて雑行を修める者は、百人の中で一人か二人、あるいは千人の中で三人か五人、ごくまれにしか浄土に往生する者はいないと言われています。その理由を、善導大師は十三項目にわたって示しています。その十三項目とは、雑行は、

(1)外からのさまざまな妨げに乱されて、正しい心を失うからである。

(2)阿弥陀仏の本願に相応しないからである。

(3)釈尊の教えと相違するからである。

(4)仏の言葉にしたがっていないからである。

(5)浄土に想いをかけ続けられないからである。

(6)阿弥陀仏を思う心が途絶えるからである。

(7)浄土に往生したいと願う心が真実ではないからである。

(8)欲やいかり、誤った見方などから煩悩がおこってきて、それが消えることがないからである。

(9)自らを顧みることがなく、悔い改めることがないからである。

(10)阿弥陀仏の恩に報謝する思いがないからである。

(11)自ら思い高ぶり、他人をあなどって、名誉や利益を優先するからである。

(12)自己にとらわれて、同じく往生を願う者に対して親しみを持たず、近づかないからである。

(13)好んで阿弥陀仏とは関係のない方向へ向かい、自分だけではなく他人の往生も妨げるからである。

 これほどまで善導大師が雑行を捨てるべき理由を挙げている文を見た法然聖人は、「どうして百人は百人すべて漏れることがなく、浄土に往生することができる(百即百生)間違いのない専修正行(念仏)を捨てて、千人の中に一人も往生する者がいない(千中無一)雑修雑行に堅く執われてよいのであろうか」と述べ、私たちにこのことをよくよく考えるべきであると諭されています。このように法然聖人は「念仏往生」という確かな道を示し、われわれを導いてくださっているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第7回

法然聖人とその門弟の教学
第7回 「善導大師の六字釈」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 「南無阿弥陀仏」の六字について解釈することを六字釈といいます。中国浄土教の大成者である善導大師は、南無阿弥陀仏について「南無」と「阿弥陀仏」とに分け、「南無」とは「帰命」「発願回向」であり、「阿弥陀仏」とは「即是其行」であると解釈されました。
 南無阿弥陀仏の南無は梵語の音写語で、中国語では帰命と訳されます。帰命とは、心から信じ敬うという意味です。また、発願回向とは、浄土往生の願いを発して回向することをいいます。そして、善導大師が阿弥陀仏とは、「すなはちこれその行なり(即是其行)」と解釈されたのは、阿弥陀仏そのものの行を表したものだからです。つまり、阿弥陀仏は単なる仏名だけではなく、衆生を浄土に往生させるはたらきを意味しているのです。
 このように善導大師は、南無阿弥陀仏の六字には、衆生が浄土に往生するために必要な願と行とが具わっていることを主張されました。衆生が往生のために必要な願と行とが具わっていることを、「願行具足」といいます。
 善導大師が願行具足の念仏を主張された背景には、摂論宗の学者による別時意(別時意趣)の批判がありました。別時意とは、無着菩薩の『摂大乗論』に説かれた仏の方便説の一つで、長い間修行を積み重ねていかなければ往生を得ることができないのに、わずかな善根によって、すぐに往生ができるかのように説くことをいいます。つまり、遠い未来の別時に得る結果を、即時に得られるかのように説くことから別時意というのです。
 この『摂大乗論』の別時意説を、摂論宗の学者は『観無量寿経』下品下生に説かれている念仏往生の教えに適用させ、この念仏を別時意であるとし、すぐに往生できるような行ではないとしました。したがって、念仏には往生しようとする願はあるけれども、すぐに往生できる行ではない(唯願無行)と主張したのです。これに対して反論した教説が、善導大師の六字釈でした。
 この善導大師の六字釈に注目し、引用されたのが法然聖人です。法然聖人が引用された意図とは、願行具足を言うのではなく、六字釈を通して、念仏とは「不回向」の行であることを論証しようとすることにありました。雑行は特別に回向しなければ往生の行にはならないけれども、念仏は阿弥陀仏の本願の行(阿弥陀仏そのものの行)であるから、衆生が回向する必要はなく、自然に往生の業となることを述べるために、六字釈を引用されたのです。なぜならば、「南無阿弥陀仏」の六字の名号そのものに、回向のはたらきがあるからです。これを衆生の側から見て、「不回向」というのです。

法然聖人とその門弟の教学 第6回

法然聖人とその門弟の教学
第6回 「不回向と回向」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄 

 法然聖人は、「正行(正定業と助業)を修めると、阿弥陀仏と親しくなり、阿弥陀仏は近くに来ておられ、阿弥陀仏への思いはとぎれず、往生のために回向する必要がなく、専修の行であるから純である」と述べられています。この中の「往生のために回向する必要がない」とは、どのような意味でしょうか。
 回向とは自ら修めた善根功徳を、自らのさとりのためにふりむけたり、他者を救うために施し与えたりすることをいいます。この回向が必要ないというのです。それはなぜでしょうか。法然聖人は、不回向と回向とを比較して、次のように述べられています。

  不回向回向対といふは、正助二行を修するものは、たとひ別に回向を用ゐざれども
  自然に往生の業となる。(『選択本願念仏集』)

 この文は、「正定業である称名と助業との二つの行業を含む正行を修める者は、たとい特別に往生のためにその行をふりむけようとしなくても、おのずから正行が往生の業となる」という意味です。正行とは阿弥陀仏と関わりのある行をいいました。いかに阿弥陀仏の本願のはたらき(他力)が強調されているかがわかります。
 阿弥陀仏の本願(第十八願)に衆生が往生するための行として誓われているのは、称名念仏の一行です。つまり称名念仏とは、すでに阿弥陀仏の本願によって往生の行として選び定められたものですから、称名することでそのまま往生の業となり、衆生の側からは往生のために回向する必要はないということになります。このことを「不回向」というのです。
 この不回向の義と弥陀回向の義とを同義として受け継がれているのが親鸞聖人です。

  聖言・論説、ことに用ゐて知んぬ、凡夫回向の行にあらず、
  これ大悲回向の行なるがゆゑに不回向と名づく。(『浄土文類聚鈔』)

  真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば
    不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(『正像末和讃』)

 このように親鸞聖人は称名念仏を、「釈尊の言葉や祖師の論書によって、凡夫は自らの力で善根を修め、さとりを開こうとするのではなく、阿弥陀仏の大いなる慈悲から回向された行(弥陀回向の法)である」として、この阿弥陀仏からの回向を「不回向という」と述べられています。
 ただし法然聖人は、「雑行を修するものは、かならず回向を用ゐる時に往生の因となる」とも述べており、雑行を回向の行であると捉えられています。