Web連載「神奈川と親鸞」「法然聖人とその門弟の教学」

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今井雅晴先生「神奈川と親鸞」

前田壽雄先生「法然聖人とその門弟の教学」

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法然聖人とその門弟の教学 第26回

法然聖人とその門弟の教学
第26回 「輩品開合」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人の『選択本願念仏集』第四章「三輩章」には、念仏と諸行との関係について、廃立・助正・傍正の三義があることを示しています。その中、善導大師の意によるならば廃立を正意とし、『無量寿経』の三輩(上輩・中輩・下輩)は、すべて念仏往生を勧めたものであると述べています。
 つづいて、法然聖人はこの『無量寿経』の三輩と『観無量寿経』の九品とを比較して問答を設けています。『観無量寿経』の九品とは、阿弥陀仏の浄土へ往生を願う衆生を、修める行によって、上品上生・上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生の九段階に分類したものをいいます。
 善導大師の当時やそれ以前の聖道諸師は、上品上生・上品中生・上品下生を大乗の行を修めた聖者、中品上生・中品中生を小乗の行を修めた聖者、中品下生を世間の善行を積んだ聖者、下品上生・下品中生・下品下生を大乗の行を学び始めたばかりの凡夫であると解釈し、程度の低い階位からできるだけ立派な聖者になるよう理解していました。
 ところが、善導大師は九品みな凡夫であることを明らかにし、『観無量寿経』は凡夫往生を説いた経典であるとしました。すなわち、善導大師は、上品上生・上品中生・上品下生は大乗の教えに遇った凡夫、中品上生・中品中生は小乗の行に遇った凡夫、中品下生は世間の善行に遇った凡夫、下品上生・下品中生・下品下生は悪に遇った凡夫の往生を示したものであると解釈しています。法然聖人は、善導大師の「遇縁」の立場を継承しています。
 そこで『選択本願念仏集』では、

『観経』の九品と『寿経』の三輩とは、本これ開合の異なり。

と述べ、『観無量寿経』の九品と『無量寿経』の三輩との関係は、三輩を詳しく説き開くと九品であり、合わせ説くと念仏往生を説いたものであるとして、三輩と九品とは同じ立場で示されたものであるとしています。これを「輩品開合」といいます。
 ところが、法然聖人は、両者を詳しく説き開いたのと、合わせ説いたのとの相違(開合の異)であるならば、三輩みな念仏往生が説かれたのと同じく、九品もみな念仏往生が説かれなければならないのではないかと、問題提起をしています。この設問を示されたのは、『観無量寿経』の経文には上品(上品上生・上品中生・上品下生)と中品(中品上生・中品中生・中品下生)に念仏が説かれず、下品に至って初めて念仏が説かれているからです。
この問いについて法然聖人は二通りの答えを示しています。一つは以下の源信和尚の『往生要集』問答料簡の文を引用して、

問ふ。念仏の行、九品のなかにおいてこれいづれの品の摂ぞや。
答ふ。もし説のごとく行ぜば、理上上に当れり。かくのごとくその勝劣に随ひて九品を分つべし。しかるに『経』に説くところの九品の行業はこれ一端を示す。理実に無量なり。

と、「問う。念仏の行は、九品の中においていずれの品に摂められるのか。答う。もしいろいろな経論に説かれている通りに行じたならば、道理として上品上生に当たる。このように勝劣に随って九品を分けるべきである。ところが『観無量寿経』に説かれた九品の行業は、その一端を示しているだけで、その実は無量である」と述べています。
 そして二つには『観無量寿経』の意とは、初めに広く定善・散善の行を説いているけれども、後には定善・散善の二善を廃して、念仏一行に帰することを勧め、九品の行は「ただ念仏」にあることを述べています。
 この『観無量寿経』の意とは、流通分にある「汝好持是語(なんぢよくこの語を持て)」の文をいいます。この内容については、『選択本願念仏集』第十二章「念仏付属章」において詳しく述べられています。

法然聖人とその門弟の教学 第25回

法然聖人とその門弟の教学
第25回 「善導によらば」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、念仏以外のさまざまな行である諸行を棄てて、ただ念仏一行であるとする理由を、廃立・助正・傍正のそれぞれ三つの解釈が可能であると述べています。それぞれは別の解釈ですが、これら三義はいずれも共通して「一向念仏のため」であると主張しています。
 すなわち、初めの義の「廃立のために説く」とは、諸行は廃するために説かれ、念仏は立てるために説かれているという意味です。次の義の「助正のために説く」とは、正しく衆生の往生が決定する行業である念仏を助けるために諸行が説かれているという意味です。そして最後の義である「傍正のために説く」とは、念仏と諸行の二門を説くけれども、念仏を正とし、諸行を傍とするという意味です。
 このようなことから、廃立・助正・傍正の三義によって、『無量寿経』に説示されている上輩・中輩・下輩の三輩はいずれも共通して念仏を説いているということができるのです。これら三義の優劣については、法然聖人は知ることは難しいとし、「請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり」と、「どうか学ぶ人たちは、おのおのの心にしたがって取捨しなさい」と述べています。
ところが、このように述べつつも「善導によらば」という領解の基準を示しています。

いまもし善導によらば、初めをもつて正となすのみ。(『選択本願念仏集』三輩章)

 つまり、「いまもし善導大師に依ったならば、初めの廃立の義をもって正しい意味とする」と理解しているのです。このように『無量寿経』や『観無量寿経』などの経典を領解するには、さまざまに解釈することが可能ではありますが、法然聖人は何よりも善導大師の領解を最も重視し、善導大師に基づいてその理解としています。
 善導大師に基づいた理解とは、『選択本願念仏集』全体を通して貫かれた思想です。例えば、本願章では阿弥陀仏の本願(第十八願)を解釈するにあたって、善導大師の『観念法門』と『往生礼讃』に説かれている本願の文を引用し、念仏往生の願の意味を明確にしています。
また、特留章では、未来の世にさまざまな経典に説かれたさとりへの道が滅んだとしても、特に『無量寿経』は滅ぶことなく留められることを取り上げ、その理由を次のように述べています。
  もし善導和尚の意によらば、この経のなかにすでに弥陀如来の念仏往生の本願を説けり。(『選択本願念仏集』特留章)
すなわち、『無量寿経』には阿弥陀仏の「念仏往生の本願」(第十八願)が誓われているからであるとしています。このような見方は「善導和尚の意によらば」と、善導大師の理解に依ることを示しています。
 そして後述の文には、「偏依善導一師(偏に善導一師に依る)」と断言し、真の相承の師を「善導一師」と仰がれています。

法然聖人とその門弟の教学 第24回

法然聖人とその門弟の教学
第24回 「傍正の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は念仏と諸行との関係を、廃立・助正・傍正の三義によって表しています。このうち第三の傍正の義では、念仏も諸行もそれぞれ上・中・下の三品の衆生に応じて説かれていることを示すために、諸行を説いていると解釈しています。上・中・下の三品とは、それぞれ『無量寿経』の上輩・中輩・下輩の三輩のことをいいます。
 まず念仏について三品を説いているとは、『無量寿経』の三輩はいずれも共通して「一向専念無量寿仏」(ただひたすらに阿弥陀仏を念じなさい)が説示されていることを意味しています。
 これについて法然聖人は『選択本願念仏集』三輩章に、源信和尚の『往生要集』大文第八(第八章)「念仏証拠門」から次の文を引用しています。

『双巻経』の三輩の業、浅深ありといへども、しかも通じてみな「一向専念無量寿仏」といふ

 源信和尚の『往生要集』には、念仏が往生の因となる証拠として、十種の文を挙げていますが、法然聖人がここで引用しているのは、その十文のうちの第二に示されている文です。ここでいう『双巻経』とは、『無量寿経』のことです。また、双巻とは上下二巻を意味しています。この文は、「三輩往生それぞれの人の行業を説く中には、その行に浅い深いはあるけれどもすべてに共通して、一向専念無量寿仏が説示されています」という意味です。
 『往生要集』念仏証拠の十文には、この他に『無量寿経』第十八願文や『観無量寿経』下品下生の文の取意として示されている「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」(極重悪人には、他に救われる道はない。ただ仏を念じて名を称えることによって、極楽に往生することができる)という文などを挙げています。
さらに法然聖人は、この源信和尚の『往生要集』念仏証拠の文は、懐感禅師の『群疑論』にも同じように説かれていると述べています。『往生要集』は、『群疑論』の教説を承けたものと考えられます。
 次に諸行についても三品を説いているとは、この上輩・中輩・下輩の三輩の中に共通してみな菩提心などの諸行が説示されていることをいいます。これは諸行について、三品に分類しているということです。これについても法然聖人は、『往生要集』大文第九(第九章)の「諸行往生門」に、「『双巻経』の三輩またこれを出でず」と述べられている文を引いています。この文は、「『無量寿経』の三輩もまたこれと同じである」という意味です。
 『往生要集』往生諸行では、往生浄土のためのさまざまな行業が明かされています。法然聖人が引用した文は、『観無量寿経』の九品往生それぞれの行業を示した後に表されています。九品とは、阿弥陀仏の浄土へ往生を願う衆生を、修めるべき行によって九種類に分類した階位をいいます。法然聖人の『選択本願念仏集』でもこの後、『無量寿経』の三輩と『観無量寿経』の九品との関係性を問題としています。

法然聖人とその門弟の教学 第23回

法然聖人とその門弟の教学
第23回 「『往生要集』の助念方法」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人の『選択本願念仏集』には、念仏と諸行との関係について、念仏を助けるために諸行を説くという「助正」の義を示しています。助正には、さらに二つの意味があるとして、同類の助業と異類の助業とに分類しています。同類の助業とは、五正行の中の称名以外の助業(読誦・観察・礼拝・讃歎供養)をいい、異類の助業とは、それ以外の助業をいいます。それ以外の助業とは、法然聖人は具体的に『無量寿経』三輩段に説かれている諸行によって明らかにしています。
法然聖人は、三輩段の中輩には「寺院を建て、仏像を造り、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をする」などの諸行が説かれていますが、これらの諸行を異類の助業であると述べています。そしてこれにつづいて、

  その旨『往生要集』に見えたり。いはく助念方法のなかの方処供具等これなり。
(『選択本願念仏集』三輩章)

と解説を施しています。
 『往生要集』とは、源信和尚が仏教のさまざまな経論釈の中から往生極楽に関する要文を集めて、阿弥陀仏の極楽浄土に往生すべきことを勧めた書物です。全体は十章で構成されており、「助念方法」はその第五章(大文第五)に説かれています。助念方法とは、念仏を助ける方法という意味です。
源信和尚はこの助念方法を、次のように規定しています。

助念方法といふは、一目の羅は鳥を得ることあたはず、万術をもつて観念を助けて、往生の大事を成ず。(『往生要集』巻中大文第五)

 つまり、助念方法とは、網目が一つしかない網では、鳥を捕らえることができないように、あらゆる方法によって、仏を心に思い浮かべ観る行(観念)を助けて、極楽往生の一大事を成就させるということです。この助念方法には、『往生要集』に七つの方法が示されています。七つの方法とは、方処供具、修行相貌、対治懈怠、止悪修善、懺悔衆罪、対治魔事、総結行要をいいます。『選択本願念仏集』では、「方処供具等これなり」とまとめられています。
 方処供具とは、念仏を修する際の場所や供物、道具をいいます。その内容は『往生要集』に次のように示されています。
まず心も身体も共に浄め、閑静な場所を選んで、できる限りの香や花などの供物を用意することです。花や香などを欠くようなことがあるならば、ただひたすら仏の功徳とその不思議な力を念じることです。仏像に礼拝する場合は、灯明を供えなければなりません。はるか西方極楽浄土を観念するならば、闇室を用いてもよいです。
 花や香を供える時には、『観仏三昧経』にある供養の文を唱えましょう。この文を唱えることによって得られる福徳は無量無辺であり、煩悩はおのずから減少して、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六度)の行はおのずから成就するのです。
 念珠を用いる場合は、極楽浄土の往生を願うならば、むくろじの実の念珠を用い、多くの功徳を望むならば、菩提樹の実あるいは水晶、または蓮の実などの念珠を用いるのがよいです。
 このように源信和尚は、念仏を助ける方法としてその実践する場所や供物、道具を具体的に述べ、念仏を修しやすい環境を整えることを勧めているのです。この念仏とは、『往生要集』では観念を指していますが、法然聖人は称名として理解されています。

法然聖人とその門弟の教学 第22回

法然聖人とその門弟の教学
第22回 「助正の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、『無量寿経』に念仏以外の行(余行・諸行)が説かれている理由をどのように解釈すべきか、という問題を設定し、これには三通りの解釈が可能であることを示されています。
三義のうち初めの「廃立」につづいて示される解釈は、念仏を助けるために諸行を説くという「助正」です。この解釈には、さらに二つの意味があると考えられています。
  一には同類の善根をもつて念仏を助成す。
  二には異類の善根をもつて念仏を助成す。(『選択本願念仏集』三輩章)
 この「同類の善根」とは、正定業である称名と同じ種類の善根をいいます。正定業とは、正しく衆生の往生が決定する行業、業因という意味です。これは善導大師の『観経疏』「散善義」の説に基づくものです。
 善導大師は、阿弥陀仏の浄土へ往生する行として、五種の正行(五正行)を挙げています。五正行とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養をいいます。そして第四の称名を正定業と規定し、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃歎供養を助業と定められています。助業とは、称名の助となり伴となる行業という意味で、念仏を称えやすいよう助けとなる行となったり、読誦・観察・礼拝・讃歎供養を実践することによって、自然に念仏も称えられるようになったりすることから言われているものです。
 このような助業を、阿弥陀仏と関わりの深い行として、正定業と同じ種類の行であることから、「同類の善根」「同類の助成」といわれています。
これに対し、「異類の善根」とは前述した助業以外のさまざまな善根のことで、念仏を称えやすいよう助けとなる行をいいます。法然聖人は、この異類の助成とはどのような行を指して言うのかを、『無量寿経』三輩段に説かれている念仏以外の行によって明らかにしています。
 三輩段の上輩に説かれている「一向に専ら無量寿仏を念ず」ことは正行に当たりますが、「出家して欲を棄て沙門となって菩提心を発す」ことは「異類の善根」に相当します。法然聖人は、この出家や発心とは初めて行う行為であると規定される一方、念仏とは長く退転しないで修する行であるから、さまたげるはずはないと述べています。
 また、中輩の「寺院を建て、仏像を造り、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をする」などの諸行や下輩の「発心」などの行も「異類の善根」であるとされています。さらに、中輩の諸行とは、源信和尚の『往生要集』「助念方法」にも説かれていると述べられています。
 そして下輩には、菩提心を発す発心と念仏が説かれているとされています。
このように『無量寿経』三輩段に説かれている念仏以外の行を、「異類の善根」「異類の助成」といわれています。
 なお、法然聖人は「衣食住の三は念仏の助業なり。これすなはち自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業なり」(『禅勝房伝説の詞』)とも説かれました。