神奈川と親鸞 前編74回

神奈川と親鸞 第七十四回  筑波大学名誉教授  今井 雅晴

  横須賀市野比の最寳寺

 横須賀市野比の最寳寺は、寺伝によれば建久6年(1195)、源頼朝が鎌倉の弁ヶ谷(べんがやつ)に天台宗の寺として創建したものという。弁ヶ谷は鎌倉市材木座の丘陵部付近の地名です。翌年、後鳥羽天皇から宮中の高御座(たかみくら)にある行基作と伝えられる薬師如来坐像をいただいて本尊にしたそうである。そこで寺の名を高御座とつけたという。第1世の住職には天台宗の僧侶である明光を招いた。
 高御座とは天皇の位を象徴する玉座のことである。すでに奈良時代の昔から、皇位継承の儀式である即位の礼で用いられている。この玉座に座ることがその儀式のもっとも重要な行ないである。もとは宮中の大極殿に安置されていたが、平安時代の途中から紫宸殿に移された。即位の礼の他に、正月の儀式や外国の使節に謁見する時にも使われた。現在では京都御所の紫宸殿に安置され、春夏に一般公開されている。
 最寳寺は、鎌倉時代の最末期、正慶2年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めによる兵火で焼けてしまった。後に鎌倉の扇ヶ谷に再建され、さらに後北条氏の弾圧にあって現在地に移転した。ただそれ以前の応永11年(1404)の「関東管領上杉朝宗奉書」に、
  野比村薬師堂免田参段 畠二段事
「野比村の薬師堂に年貢を納める田3反・畠2反について」とあるので、野比には早くから最寳寺の寺領があったと考えられる。
 さらに寺伝によると、明光の父は藤原信濃守頼康、母は源義朝の娘と伝えている。頼朝は義朝の息子であるから、寺伝では明光は頼朝の近い親族ということになる。
 明光は15歳で出家して明光良雲と名のり、比叡山に登って天台宗の修行に励んだ。親鸞聖人とは比叡山で同室のよしみを結んだ仲であるとされている。聖人が越後国に流された時、明光はたびたび聖人のもとを訪ねた。そして承元3年(1209)、聖人の門下に入ったという。

京都御所の高御座。京都市上京区

神奈川と親鸞 前編73回

神奈川と親鸞 第七十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
三浦市白石の最福寺

 三浦市白石の最福寺は、寺伝によれば、もと鎌倉に建てられたと伝えられている。寺の開基は桑田永教という人物で京都丹波出身であった。幼い時に比叡山延暦寺で出家した。その後、比叡山での修行を終えてから鎌倉に移った。それは建久年間(1190〜1199)のことだったという。寛喜2年(1230)には天台宗の寺院を建立し、さらにその後に親鸞の門に入ったと伝えられている。その寺院の名称は不明である。
 戦国時代の天文元年(1532)、寺は戦乱の中で鎌倉から三浦半島南部の西の浜に移り、西福寺と称するようになった。
 江戸時代になると漁業に従事する人たちの人口が急激に増えたので、漁港近くにあった西福寺は移転せざるを得なくなった。その結果、現在の三浦市白石の地に移った。元禄10年(1697)のことであった。寺名も最福寺と改めて現在に至っている。
 上述のように西福寺はもと鎌倉にあった。しかし考えてみると、浄土真宗の歴史では親鸞と鎌倉との親しさを示す話は避けられてきた。特に、親鸞が幕府の執権北条泰時に一切経校合を依頼され、引き受けた話は無視されてきた。それは覚如の作り話だろうというわけである。民衆の味方親鸞は権力者に協力するはずはないという意識が、つい近年まで底流にあった。民衆の味方親鸞は権力者と戦ったはずだというのである。
 しかし、歴史を民衆と権力者の戦いと見る考え方はすでに過去のものとなった。そもそも親鸞が信奉した阿弥陀如来は、その慈悲によりすべての人々を救うはずである。権力者はその救いから漏れるのであろうか? 親鸞自身、越後流罪では「権力者」の越後権介日野宗業に助けられ、関東の稲田では「権力者」の大豪族宇都宮頼綱の保護を受けていたのである。そろそろ鎌倉そして神奈川県の浄土真宗史を本格的に見直すべきであろう。
 最福寺は100段以上の階段を上った所にある。一歩一歩登っていくのは大変であるが、気持がよく、景色のよい境内である。

 

神奈川と親鸞 前編72回

神奈川と親鸞 第七十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
厚木市上落合の長徳寺

阿弥陀如来立像。厚木市上落合・長徳寺


 厚木市上落合の長徳寺は、同じく厚木市の岡田の長徳寺と同名です。今回取り上げた上落合の長徳寺のそもそもの成立については、よく分かっていません。寺伝ではもと真言宗の寺院であったとされています。その後、住職が西香という僧侶であったころ、親鸞に帰依して浄土真宗の寺院になったといいます。それは寛喜二年(1230)であったとされています。この年は親鸞は58歳で、記録に残っている限り、法兄聖覚の『唯信抄』を初めて書写した年です。また後世に寛喜の大飢饉と呼ばれた大変な飢饉のあった年でもあります。この大飢饉は、前後3年は続いた大災害でした。
 長徳寺のその後の展開は明らかではありません。しかし戦国時代末期の天正19年(1591)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼすために大軍をもって攻め寄せて来た時、長徳寺に禁制を与えて保護したことが分かっています。その禁制の内容は、軍勢が長徳寺で乱暴狼藉をすること・長徳寺に放火をすること・長徳寺に勝手な要求をすることを禁止する、などでした。「禁制」とは寺社などの保護・統制を目的として、権力者が禁止事項を書いたものです。寺社の門前などに木札などで書かれて示されることが多くありました。
 また文禄元年(1592)11月の本願寺顕如の没にあたって、長徳寺は銀子4匁5分5厘を献上しています。翌年正月6日、本願寺の坊官下間頼廉は「顕如様往生の志として銀子四匁五分五りん、進上の通り懇ろに申し上げ候。則ち御印書を成され候(顕如の後を継いだ教如が、その印を押した礼状を書かれました)」と丁寧な手紙を送ってきています。長徳寺は有力寺院だったのです。
 ところで長徳寺の本尊阿弥陀如来立像は、放射状の光背を背負う浄土真宗形式の阿弥陀像で、寄木造・像高63センチです。戦国時代の天文4年(1535)に小田原北条氏の家臣であった藤田氏が造立したものです。本年(2017)1月、厚木市の文化財に指定されました。

神奈川と親鸞 前編71回

神奈川と親鸞 第七十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
厚木市岡田の長徳寺

長徳寺山門。


 長徳寺は、寺伝によると平安時代最末期の寿永2年(1183)、浄光という僧侶が真言宗の寺院として開いたといいます。親鸞がちょうど10歳になった年です。比叡山において9歳で出家してからまだ2年目だったということになります。
 それから49年後の寛喜元年(1229)、57歳の親鸞は国府津の真樂寺に逗留、念仏の教えを伝えていました。浄光はその真樂寺で親鸞に会って門弟にしてもらい、浄光という法名を与えられたと長徳寺の寺伝では伝えています。
 その後、戦国時代末期までの長徳寺の展開は明らかではありません。戦国時代末期、当地岡田村の領主で津久井城の城主であった内藤左近将監の尽力により、小田原の北条氏直から朱印地10石を与えられたといいます。その伝えを裏づけるように、長徳寺には戦国時代制作を思わせる立派な阿弥陀如来立像と、聖徳太子立像がとが伝えられています。
 江戸時代に入って元禄16年(1703)、長徳寺は火災に遭って本堂等が焼けてしまいました。その後、聖徳元年(1711)に建立されたのが現在の本堂です。
 神奈川県の浄土真宗寺院には、重量感があり、同時に威厳のある聖徳太子立像を安置している寺院が多くあります。関東の他の都県には見られない特色です。それは鎌倉時代から鎌倉に仏所(仏像を制作する組織)が成立し、連綿と引き継がれたからでしょう。
 ところで「聖徳太子」といえば、日本で教育を受けた者なら誰でも知っている存在です。しかし文部科学省の指導要領の改訂で、まもなく、社会科ないし日本史の教科書からは「聖徳太子」の名が消えることになりました。浄土真宗の世界では厄介なことになりそうです。これも時代に流れでしょうか。(3月20日付新聞に「消えることは撤回」とありました)
 さて、長徳寺の山門をくぐると美しい日本庭園が展開します。池には緋鯉・真鯉が泳ぎ、築山を中心にした周囲には椿・梅・牡丹・ツツジなどが形よく植えられ、それぞれの時期に花開き、秋には紅葉も楽しめます。静かな雰囲気の寺院です。

神奈川と親鸞 前編70回

神奈川と親鸞 第七十回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

56歳の親鸞─鎌倉と国府津と─

真楽寺案内石標。東海道沿い(山側)にある


 安貞2年(1228)、56歳の親鸞は国府津で念仏の教えを説き始めたという。これは国府津の真楽寺その他の寺院や、江戸時代の各種巡拝(順拝)記等の伝えるところである。
 他方、前の年は鎌倉幕府の尼将軍北条政子3回忌であった。元仁元年(1224)、彼女の強力な後押しで第3代執権に就任することができた北条泰時は、早くも翌年に亡くなった政子の葬儀・1周忌・3回忌法要を盛んに行なうことで自らの権威を固めようとしていた。
 3回忌の次は7回忌であるけれども、当時は重要視されていなかった。次の13回忌までの10年間、泰時は政子供養のための一切経書写と三井寺(園城寺)への寄進を企画した。覚如の『口伝抄』によれば、そのための準備の一切経校合という困難な仕事を親鸞に依頼、親鸞はそれを引き受けたという。この話の妥当性は、拙稿「親鸞聖人と神奈川県⑵」(『組報かまくら』第33号、平成29年1月)で述べた。
 政子3回忌法要は安貞元年(1227)である。『大谷遺跡録』には「高祖五十六歳、稲田郷にましましながら、安貞二年のころより、よりより此所にかよひ給ふ」とある。永禄11年(1568)の『反故裏書』には「又鎌倉にも居し給と也」とある。仏光寺本『親鸞伝絵』には親鸞が一切経校合を進める詞書と絵が載せられている。
 親鸞56歳の時、5人の子のうち、末の覚信尼はまだ5歳ではあるが、長子の小黒女房は21、2歳、次の信蓮房は18歳である。親鸞が長期間稲田草庵を留守にしても恵信尼は問題なく家庭を運営することができたであろう。
 親鸞は一切経校合を手がかりに、鎌倉そして国府津を二つの軸として相模国での布教を進めたものであろう。ただ問題は一方の軸がなぜ国府津であったかということである。国府津が交通の要地であったことは明らかであるが、その領主は、いまだ判明していない(『小田原市史 通史編 原始 古代 中世』小田原市、平成10年)。北条泰時のお声がかりがあったことは考えられるが、声をかけた武士が誰か、今後の研究課題である。

神奈川と親鸞 前編69回

神奈川と親鸞 第六十九回  筑波大学名誉教授  今井 雅晴
真楽寺と親鸞⑷─帰命石─

帰命石(模造)。真楽寺蔵



 かつて国府津には中国からの船も逗留する港があった。中国はすでに宋の時代になって久しいが、依然として「唐」が代名詞として使われることが多かった。。
 蓮如の謡曲『国府津』に、次の文がある。

  扨(さ)ても古へ開山上人、此所に御逗留の折節(おりふし)、来朝せる唐船の中に、
  高さ七尺横三尺余の霊石あり。則ち天竺仏生国の石なればとて、親鸞自ら御指を以て
  二つの尊号を十字八字にあそばされしを、石の名号と申し奉り、安置せる所を則ち
  真楽寺とは申し候。

 「さてさて昔、親鸞聖人がこの国府津に滞在しておられたころ、日本に来た中国の船の中に縦七尺・横三尺余りの霊力がこもった石がありました。これは釈迦が誕生した所であるインドの石に間違いないと、親鸞聖人は自分の御指で「帰命盡十方無㝵光如来」という十字名号と「南无不可思議光佛」と書かれたのを、石の名号と申し上げており、それを安置してある所をすなわち真楽寺と申しています」。
 この「霊石」は、その後、帰命石(きみょうせき)と呼ばれて真楽寺に伝えられてきた。ただし現在、この石は地面の中に埋められていて、その上に帰命堂がある。したがって帰命石を見ることはできない。『新編相模国風土記稿』にその模写が記載されている。
 また帰命堂には帰命石の複製と拓本が安置されている。その銘文は、

  右志者鏡空行光門弟一向専修念仏者等
  帰命盡十方无㝵光如来
  南无不可思議光仏
  建武元戌十一月十二日同心敬白

である。真楽寺の寺伝では、中央の二つの名号は親鸞が書いたもので、左右の銘文は覚如が国府津に立ち寄った際に書き込んだものとしている。

神奈川と親鸞 前編68回

神奈川と親鸞 第六十八回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
真楽寺と親鸞⑶─蓮如の謡曲『国府津』─

蓮如の謡曲「国府津」。真楽寺蔵


 蓮如の御文(御文章)『国府津』は、東国巡拝の折に国府津に立ち寄り、親鸞教化の話に感動したことを文章にしたものである。現代では『国府津』は蓮如作の謡曲とされているが、もとは御文だったのを後世に謡曲としたものである。謡曲とは能楽の台本である。
 『国府津』は次のような内容が書かれている。

  (前略)是は都方(みやこ・かた)より出たる一向専修の念仏者にて候。偖(さて)も
  我(わが)祖師 東関のさかひに二十余回の星霜をかさね、辺鄙(へんぴ)の郡萌を
  済度せしむ。
  中にも相州足下の郡江津(こうづ)に、七年御座をしめ給う霊場なれども、未だ参詣
  申さず候程に、此度思ひ立ち彼の御旧蹟へと赴き候。

「私は京都から来た一向専修の念仏者です。ところで私の師匠の親鸞聖人は、東国の世界で20余年を過ごし、地方の人たちを念仏で導きました。
なかでも相模国足柄下郡国府津は七年間逗留された霊場ですけれども、私はまだ参詣したことがありません。そこで今回思い立ってそのご遺跡へ向かったのです」。
続いて旅の様子を、

  草に行き、露に宿りていさなとるいさなとる、海山かけて立つ雲の、いや遠ざかる
  旅衣(たびごろも)、きのふと明し、けふと暮れ、かはるあるじの宿宿を、こえて
  さ川(早川。はやかわ)の程もなく、江津の里に着きにけり着きにけり。

「昼間は草を踏んで歩み、夜中は夜露に濡れながら野宿をし、海や山に立つ雲を見ながら旅装束で毎日歩き続け、街道沿いの宿に泊まっていくうち、早川を越えると間もなく国府津の里に着きましたよ」と口調よく述べている。「いさな」は「海」の枕詞である。
 早川は箱根山頂上の芦ノ湖の最北部から発し、箱根町から小田原市西部を流れ、JR東海道線早川駅の北で太平洋に注ぐ川である。

神奈川と親鸞 前編67回

神奈川と親鸞 第六十七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

真楽寺と親鸞⑵─御勧堂─

「御勧堂」の石碑


 小田原市国府津の真楽寺と親鸞に関し、『反故裏書(ほごのうらがき)』に次のように記されている。『反故裏書』は浄土真宗史上、歴史学者として知られた顕誓が永禄11年(1568)に執筆したものである。顕誓は蓮如の孫である(蓮如─蓮誓─顕誓)。

  (親鸞は)相模国あしさげの郡高津の真楽寺、又鎌倉にも居し給と也。

 「親鸞聖人は足柄下郡国府津の真楽寺に、また鎌倉にも住んでおられました」。「あしさげ」は「足下」で、「高津(こうづ)」は「国府津」である。江戸時代の『大谷遺跡録』にも、

  高祖五十六歳、稲田郷にましましながら、安貞二年のころより、よりより此所にかよひ給ふ。

「親鸞聖人は56歳、稲田郷に住んでおられながら、その安貞2年(嘉禄元、1226年)のころからこの真楽寺に通われました」とある。

 親鸞が国府津で教えを説いたのは、勧堂(すすめどう)という小堂であったともいわれている。そのことは『大谷遺跡録』にも、

  相州国府津の勧堂は、高祖聖人在住の時、説法利生の芳趾なり。

 「相模国国府津の勧堂は、親鸞聖人が住んでいた時に教えを説かれた遺跡です」とある。
 蓮如の御文(御文章)にも、

  御在世の昔、往生の一途を教化したまふ、其堂場の御跡なりとて、あれなる松の木の
  間に草むらの御座候を、今に勧堂とは申習はしてこそ候へ。

 「親鸞聖人がご存命のころに極楽往生のただ一つの道を説かれましたが、その道場の跡であるとして、あそこの松の木の間にある草むらを、現在に至るまで勧堂と言い習わしてきました」と示されている。
 以上を記念して「御勧堂」と彫り込まれた大きな石碑が、真楽寺の近く、東海道の海岸寄りに建てられている。

神奈川と親鸞 前編66回

神奈川と親鸞 第六十六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

真楽寺と親鸞⑴─国府津:交通の要地─

真楽寺(眞樂寺)本堂

真楽寺(眞樂寺)本堂


 小田原市国府津の真楽寺(眞樂寺)は、親鸞がここを拠点にして教えを説いたという伝えが残っている。また神奈川県の各地にも、それぞれの寺院の開基またはそれに近い僧侶が国府津で親鸞の教えを受けた、という伝えのある寺院がある。国府津と鎌倉は親鸞の相模国布教の2大拠点であったと推定される。
 真楽寺は、JR国府津駅の近くで、東海道(国道一号線)に面したその北側にある。このあたりでは東海道はJR東海道線の南側を通っているので、真楽寺は裏手にJR線を背負っている形になっている。しかし、もともとはJR線の北側の丘陵の上にあった。
 国府津は鎌倉時代から宿場町として、さらに市が開かれる所として栄えていた。地形的には丘陵が海に迫っており、農地を開く余地はほとんどなかったと推定される。真楽寺から東海道を越え、人家の先の西湘バイパスを越えれば太平洋である。真楽寺から海までは200メートルもない。
 また真楽寺から西に向かってしばらく行くと、東海道と直角に交差した所から始まる曽我道(国府津道)が北に向かって伸びている。この曽我道は山間部と海岸部とを結ぶ重要な街道であった(『小田原市史通史編 原始 古代 中世』第五章第三節「2 国府津地区の復元」、小田原市、1998年)。また巡礼街道(小田原市飯泉の飯泉観音(勝福寺)に至る)・府中道(伊勢原市の大山に至る)等も国府津で東海道に合流していた。そして国府津には中国からの貿易船が入る港の施設もあったから、まさに国内外の物資の集散地であった。
 なお「国府津」という地名は、「国府の近くの港」という意味であり、諸国に存在したものである。相模国の国府津なら、付近に国府があったはずである。しかし相模国の国府はどこであったのか、実はまだ確定していないのである。
 真楽寺は聖徳太子の開創という。平安時代以降は天台宗となり、鎌倉時代の安貞2年(1228)、時の住職の性順が相模国を布教中の親鸞に帰依して浄土真宗に改めたという。

神奈川と親鸞 前編65回

神奈川と親鸞 第六十五回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
光福寺と隆寛⑶─流罪の途中で飯山に留まる─

隆寛墓所。厚木市飯山・光照寺

隆寛墓所。厚木市飯山・光照寺


 嘉禄3年(1227)6月、延暦寺の僧たちが東山の法然の墓を暴こうとした。しかし六波羅探題の北条時氏に阻止され、遺骸は宇都宮頼綱等に守られて二尊院に運ばれている。
 翌7月4日、後堀河天皇の綸旨が延暦寺に下された。それには、まず、延暦寺の僧たちは乱暴な行動を止めるようにとあった。続いて専修念仏者の隆寛を陸奥国に、空阿を薩摩国に、成覚を壱岐国に流すと記されていた。こうして80歳の隆寛は陸奥国に向かった。
 当時、流罪は本人が勝手に流罪地に行くのではない。必ず護送役が連れて行くのである。流刑地への道も分からない者が一人で行けるはずもないし、受け入れ先の国の国府でも、いきなり流人が現われても戸惑うばかりである。護送役が書類等持参の上、送り届けるのである。その護送役を領送使といった。主に検非違使の者がその役に当たった。
 隆寛を連れて行く領送使は、毛利季光という武士であった。彼は鎌倉幕府の政所の別当(長官)大江広元の息子であった。季光は当時26歳、護送中に隆寛の説く専修念仏の教えに感動し、すっかり隆寛に帰依するに至った。その感動のあまり、自分の領地が相模国の毛利荘にあったので隆寛にそこに留まってもらうことにしたのである。
 ところで陸奥国へ流すという綸旨は無視することはできない。そこで代わりに隆寛の門弟実成房が陸奥に向かっている。しかし陸奥国府の役人に「隆寛の代わりに来ました」ということはできないし、なんらかの工作はあったのであろう。光福寺の伝えによれば、実成房は隆寛の実子であったという。
 高齢の長旅のためか、精神的な疲れからか、隆寛は引き込んだ風邪がもとでその年の12月13日に亡くなった。終焉の地は厚木市飯山・光福寺の地であったとされている。同寺境内に隆寛の墓所が現存し、新らしい物であるが隆寛坐像も同寺本堂に安置されている。
 ちなみに、流罪の親鸞も一人で雪の中をよろよろ歩いて越後国に向かったのではなく、領送使が安全に送り届けたのであることを再確認しておきたい。