神奈川と親鸞 前編第7回

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神奈川と親鸞 第七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴  仲間の念仏者たち⑴ 熊谷直実①―源頼朝のお気に入りー 直熊谷直実坐像。直実は一騎当千ながら、兵力は本人と息子のただ二騎だけだった。(『平家物語』)。埼玉県熊谷市・熊谷寺蔵  熊谷直実は、武蔵国村岡の住人で、一騎当千の坂東の荒武者として知られていた。彼は、平安時代末期の保元の乱と平治の乱で、いずれも源義朝に従って京都で戦っている。平治の乱には当時十三歳の源頼朝も参加していた。直実もまだ十九歳の若者で、「熊谷次郎」として『平治物語』に示されている。  二十年余り後に頼朝が当時全盛の平家を倒すために挙兵した時、紆余曲折はあったが、直実も頼朝に従って戦った。一の谷の戦いの後、平家の若武者平敦盛を討った慚愧の念から、「それよりしてぞ、熊谷が発心の思ひはすすみける(出家の思いが強くなった)」と『平家物語』にある話はよく知られている。  「腹悪し(短気)」と評された直実(『真如堂縁起絵巻』)。一本気で、戦争では「軍兵の中に、熊谷次郎直実(中略)は殊に勲功あり」(『吾妻鏡』治承四年十一月六日条)と称賛される直実を、頼朝はことのほか気に入っていた。熊谷郷の地頭職も与えた。ともすれば反抗しがちな関東の大豪族たちの中で、直実は頼朝を主人として立ててくれたからである。  『吾妻鏡』建久三年(一一九一)十月二十五日条によると、直実は頼朝の面前での裁判の場面で敗けそうになり、かっとして部屋を飛び出して出家し、行方も不明になってしまったとある。この時の裁判の相手は久下直光という武士で、直実の叔父、しかも直実の父が早世したので少年の直実を養ってくれた人物であるその叔父と領地の境界争いで揉めて裁判に至ったのである。  頼朝の許可を得ないで出家するのは、奉公の義務を勝手に捨てたことになる。頼朝が怒って熊谷郷を取り上げても不思議ではない。それなのに頼朝は苦笑してすませ、直実を探させた。もとのように自分に仕えさせようとしたのである。幕府運営にあたっては、武官と文官、つまりは軍人と事務官僚が必要である。頼朝は前者の精神を体現している直実を惜しんだのである。しかし直実は、京都へ走り、法然の門に入って念仏の行者となった。

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