神奈川と親鸞 前編13回

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神奈川と親鸞 第十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴  仲間の念仏者たち⑷ 宇都宮頼綱➀―北条泰時を支える―
宇都宮辻子幕府あとの石碑。鎌倉市小町

宇都宮辻子幕府あとの石碑。鎌倉市小町

 前回に述べた塩谷朝業の兄の宇都宮頼綱は、執権北条泰時を支えた政治家であった。泰時は後になってこそ「心正しく」「人を孕み」、北条氏の長期政権のもとを作ったと評価された(北畠親房『神皇正統記』)。しかし元仁元年(一二二四)の父義時没の時には、薄氷を踏む思いだった。本来の跡継ぎは弟の政村であり、朝時であったからである。それを伯母の政子と、事務官僚の代表である大江広元が抑え込んで泰時後継が実現したのである。  ところが翌年の嘉禄元年、政子と広元が相次いで亡くなった。泰時は叔父の時房をもう一人の執権(通称は、「連署」)に迎え、有力御家人や事務官僚・北条一族を集めた評定衆を設置し、合議制で危機を乗り切ろうとした。承久三年(一二二一)の乱では泰時は時房と共に京都へ攻め込んで勝利し、そのまま泰時は六波羅探題北方、時房は同南方として三年間協力して朝廷対策に当たった。泰時にとって時房はもっとも信頼できる親族であった。  泰時は、時房を連署に迎えた年、幕府の役所を当初からの大蔵から宇都宮辻子へ移した。宇都宮辻子は若宮大路の東側に当たる小道である。ここは北関東の大豪族宇都宮頼綱が祖父の朝綱以来の屋敷地を持っていた場所であった。  頼綱は、下野国南部・中部から常陸国笠間郡を領し、妻は北条義時の妹すなわち泰時の叔母であった。頼綱の母は京都の貴族で、彼は京都にも勢力を有していた。嘉禄二年(一二二六)、泰時はその孫で二歳の経時と、頼綱の同い年の孫娘とを婚約させている。泰時は、北条氏以外では宇都宮頼綱をもっとも頼みにして難局を乗り切ろうとしたのである。 ┌北条義時―泰時―時氏―経時 └――女子        ┃     ┣―泰綱――――女子     宇都宮頼綱  その頼綱は法然最晩年の熱心な門弟で、親鸞を常陸稲田に招いた人物でもあった。

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