今井雅晴先生「神奈川と親鸞」
前田壽雄先生「法然聖人とその門弟の教学」
今井雅晴先生「神奈川と親鸞」
前田壽雄先生「法然聖人とその門弟の教学」
神奈川と親鸞 第十回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑵ 北条政子➁―法然からの書状―
法然の書状の一通に、「鎌倉の二品比丘尼に信ずるご返事」と呼ばれている書状がある。「鎌倉の二品比丘尼」が北条政子のことで、「黒谷上人」が法然である。法然の自筆は残っておらず、元亨元年(一三二三)年版の『黒谷上人和語灯録』によって伝えられている。
政子は夫が亡くなってから出家し、承久元年(一二一九)に朝廷から従二位に叙せられた。法然は建暦二年(一二一二)に亡くなっているので、本書状はその前のものである。
そのころ政子は、夫頼朝と三人の子どもたちへの追善供養とともに、弟の義時と組んで北条氏勢力の維持と発展に努めていた。承久三年(一二二一)の承久の乱においても、後鳥羽上皇との戦いに尻込みする武士たちを正面から鼓舞しなければならなかった。
本書状の最初に、
くまがへの入道、つのとの三郎は無智のものなればこそ、余行をせさせず、念仏ばかりおば、
法然房はすゝめたれと申候なる事、きわめたるひがごとにて候也。
「熊谷入道(直実)、津戸三郎(為守)は無知の者なので他の難しい行をさせず、簡単な念仏だけを、法然房は勧めているのだろうという者がいますが、それはまったくの心得違いです」とある。津戸三郎為守とは武蔵国荏原郡の武士である(東京都国立市あたり)。
続いて書状では、
弥陀の(中略)大願はあまねく一切衆生のため也。有智・無智、善人・悪人、
持戒・破戒、貴賤・男女をもへだてず。(中略)たゞ念仏ばかりこそ現当の祈祷とはなり候へ。
「阿弥陀仏の大願はすべての人のためにあるのです。ただ念仏を称えることだけが現世と来世にわたって利益を蒙ることができます」と述べ、
御こゝろざし金剛よりもかたくして、一向専修の御変改あるべからず。
「念仏の気持を堅固に維持して、ひたすら念仏を称えることをお止めにならないように」と結んでいる。法然は奮闘する政子に激励の書状を送ったのである。
神奈川と親鸞 第九回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑵ 北条政子➀―夫と四人の子を失う―
神奈川と親鸞 第八回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち ⑴熊谷直実➁―法然に救われる―
源頼朝のもとを飛び出し、京都に走った熊谷直実。直実は極楽往生を保証してくれるらしい吉水草庵の法然を訪ねた。この時直実は五十歳過ぎ、武士として人殺しを重ねてきた自らの悪行に慄然としていた。この罪によって地獄に堕ちるに違いない。
会ってくれた法然は、「いままでの悪行がどれだけ重いかとは関係なく、念仏さえ称えれば往生しますよ」と答えた。これを聞いた直実は「さめざめと泣」いたという。それは、
手足をもきり命をもすててぞ、後生はたすからむずるぞとうけ給はらんずらんと存ずるところに、ただ念仏だにも申せば往生するぞと、やすやすと仰をかぶり侍れば、あまりにうれしくてなかれ侍る。 (『法然聖人行状画図(四十八巻伝)』。
「手足を切り、命を捨てなければ極楽へ往生できないと仰ると思ったのに、念仏さえ称えれば往生できると軽く言われたので、あまりにうれしく泣けてきました」。直実は法名を法力房蓮生と与えられて熱心な念仏の行者になった。
ある日、吉水草庵で会合があった。遅刻した直実が入ると、多くの門弟がいて親鸞が何かノートに書きつけている。直実が様子を聞くと、親鸞は「極楽往生のためには信不退(阿弥陀仏の本願を信ずること)か、行不退(念仏を数多く称えることによって得られる功徳)が重要か選んでもらっています。聖覚殿と信空殿が信不退の席に入られただけです」と丁寧に答えた。直実は親鸞より三十二歳の年上の兄弟子である。そこまで聞いた直実は、
然者法力もるべからず、信不退の座にまいるべし。 (『親鸞伝絵(御伝鈔)』)
「それなら私も漏れたくない、信不退の席に入りましょう」と言った。他の門弟たちは誰も答えることができないでいる。親鸞は自分の名を信不退の中に書き入れた。少し経って法然も「私も信不退の席に入りましょう」と述べたという。
一本気で熱心な直実は、高声念仏(大きな声で念仏を称え続けること)で亡くなった。死期は立札で予告してあったので、大勢の人たちがそれを見守ったそうである。
神奈川と親鸞 第七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑴ 熊谷直実①―源頼朝のお気に入りー
熊谷直実坐像。直実は一騎当千ながら、兵力は本人と息子のただ二騎だけだった。(『平家物語』)。埼玉県熊谷市・熊谷寺蔵
熊谷直実は、武蔵国村岡の住人で、一騎当千の坂東の荒武者として知られていた。彼は、平安時代末期の保元の乱と平治の乱で、いずれも源義朝に従って京都で戦っている。平治の乱には当時十三歳の源頼朝も参加していた。直実もまだ十九歳の若者で、「熊谷次郎」として『平治物語』に示されている。
二十年余り後に頼朝が当時全盛の平家を倒すために挙兵した時、紆余曲折はあったが、直実も頼朝に従って戦った。一の谷の戦いの後、平家の若武者平敦盛を討った慚愧の念から、「それよりしてぞ、熊谷が発心の思ひはすすみける(出家の思いが強くなった)」と『平家物語』にある話はよく知られている。
「腹悪し(短気)」と評された直実(『真如堂縁起絵巻』)。一本気で、戦争では「軍兵の中に、熊谷次郎直実(中略)は殊に勲功あり」(『吾妻鏡』治承四年十一月六日条)と称賛される直実を、頼朝はことのほか気に入っていた。熊谷郷の地頭職も与えた。ともすれば反抗しがちな関東の大豪族たちの中で、直実は頼朝を主人として立ててくれたからである。
『吾妻鏡』建久三年(一一九一)十月二十五日条によると、直実は頼朝の面前での裁判の場面で敗けそうになり、かっとして部屋を飛び出して出家し、行方も不明になってしまったとある。この時の裁判の相手は久下直光という武士で、直実の叔父、しかも直実の父が早世したので少年の直実を養ってくれた人物であるその叔父と領地の境界争いで揉めて裁判に至ったのである。
頼朝の許可を得ないで出家するのは、奉公の義務を勝手に捨てたことになる。頼朝が怒って熊谷郷を取り上げても不思議ではない。それなのに頼朝は苦笑してすませ、直実を探させた。もとのように自分に仕えさせようとしたのである。幕府運営にあたっては、武官と文官、つまりは軍人と事務官僚が必要である。頼朝は前者の精神を体現している直実を惜しんだのである。しかし直実は、京都へ走り、法然の門に入って念仏の行者となった。
神奈川と親鸞 第六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
三善康信―恵信尼の従兄弟―
三善康信の先祖三善清行(菅原道真の争った平安時代の大学者)の居住後の石碑。京都市下京区・醒泉小学校の校庭
建保二年(一二一四)年、親鸞と恵信尼一家が関東に入ったころ、鎌倉幕府の高官には恵信尼の従兄弟がいた。三善康信と弟の康清である。康信は幕府の重要役所である問注所(裁判を担当)の執事(長官)であったし、康清も公事奉行という重要な職にあった(拙著『親鸞をめぐる人びと』「三善康信」の項と「三善康清」の項。自照社出版、二〇一二年)。
『近世防長諸家系図綜覧』(防長新聞社山口支局、一九六六年)に収められている『椙杜社家家譜』をもとに三善家の系図を示すと次のようになる。
三善為康――康光――康信
│ └康清
└為教――恵信尼
康信は実に優秀な人物で、後白河法皇のお気に入りであった。法皇は、平清盛全盛期から源平の戦い、そして源頼朝の幕府開設に対し、一歩も引かずに貴族の利益を守り切った。法皇の相談相手である蔵人頭は吉田経房という貴族であった。そして経房の下の役職にあり、手足となって働いたのが康信であった。いわば蔵人頭の秘書課長ともいうべきこの役を出納といい、五位の位を持つ貴族が就任したので五位出納と通称された。法律に精通し、人事にも詳しく、優れた交渉能力がある者でなければ務まらない。
平家全滅の二年前の寿永二年(一二八三)、先を見とおした後白河法皇は、頼朝との協力関係を発展させるために、康信を現職のままで鎌倉に送った。頼朝は康信の実力を大いに買い、やがて幕府を開くと重職につけて運営にあたらせたのである。親鸞と恵信尼が関東に入った建保二年(一二一四)、康信はすでに七十五歳の高齢であったが、依然として幕府の重臣であった。
親鸞は放浪するように越後から関東へ入ったのではないし、関東では大豪族宇都宮頼綱一族の保護下にあった。親鸞の活動を「野の聖」などと詠嘆調で美化するのは誤りである。史料では確認できるかぎり、彼の有力門弟は武士たちである。