神奈川と親鸞 第五十四回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
信楽と厚木市飯山の弘徳寺⑶─信楽が与えられた本尊と聖教─
小島草庵跡。蓮位はここに三月寺を建立した。 茨城県下妻市小島
信楽が師匠の親鸞に叱られ、門下を離れて故郷に帰ることになった時、意見をいう者がいた。親鸞に親しく仕え、日常のお世話をしていた蓮位(れんに)という人物である。常陸国小島付近の出身である。
蓮位は、「信楽房がご門下をやめて帰国するというのなら、お師匠様が信楽房に授与してあったご本尊の名号や教典類を返上させるべきではありませんか。特に書名の下に「釈親鸞」と名を書かれた経典類は多いですし。信楽房がご門下を離れるなら、きっとそのご本尊や経典を大切にすることはなくなってしまうでしょうから」と述べたのである。このように覚如の『口伝抄』には記されている。
すると親鸞は、「いや、そのように取り返すことは決して行なってはいけません」と答えたといいます。その理由は、
たとひかの聖教を山野にすつといふとも、そのところの有情群類、かの聖教にすくは
れてことごとくその益をうくべし。しからば衆生利益の本懐、そのときに満足すべし。
「もし信楽がその本尊や経典類を山や野に捨てたとしても、そこに住んでいる者たちがその経典類を拾うこともあるでしょう。そうすればその人たちはその本尊や経典によって念仏の教えに導かれ、皆、極楽往生という恩恵にあずかれるでしょう。その結果、すべての人々を救おうという阿弥陀仏の願いは成就することになります」ということだったのである。
あわせて親鸞は、
凡夫の執するところの財宝のごとくに、とりかへすといふ義あるべからざるなり。
よくよくこころうべし。
「私たちがややもすれば執着する財宝と同じように本尊・経典を扱い、取り返そうなどと考えてはいけません」と強く戒めている。
神奈川と親鸞 第五十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
信楽と厚木市飯山の弘徳寺⑵─「突鼻(とっぴ)にあずかった」信楽─
弘徳寺本堂。厚木市飯山
飯山の弘徳寺の寺伝によれば、開基の信楽は稲田草庵に親鸞を訪ねてその門に入ったという。後に親鸞が飯山に来た時、聖徳太子の由緒を喜んで草庵を結び、付近で布教し、やがて信楽にその草庵を託したとする。
親鸞の帰京後、信楽も京都に上ってその指導を受けていた。しかしある時、信楽は親鸞の機嫌を損ねてしまった。そのことを覚如の『口伝抄』第六項に次のように書いてある。
常陸国の新堤(にいづつみ)の信楽坊、聖人【親鸞】の御前にて、法文の義理ゆゑに
仰せをもちゐまうさざるによりて、突鼻にあづかりて本国に下向、
「常陸国新堤の信楽房は、親鸞聖人の前で、経典の解釈で聖人とは異なる解釈を主張したので、激しく叱られてしまった。そして門下としてはいられなくなり、故郷に帰ることになった」。
信楽はおそらく多くの経典を読み、学び、かなりの自信を持っていたのであろう。そしてつい親鸞の前で、あるいは他の門弟をまじえた勉強会で親鸞とは異なる意見を主張したということであろう。当然、逆らおうなどと思っていたのではない。親鸞が折れてくれて、「信楽、さすがだな」と褒めてくれるだろうと期待したと思われる。
ところが甘い期待に反して、信楽は厳しく叱られた。「突鼻(とっぴ)」は「突飛(とっぴ。あまりにも思いがけないありさま。奇抜なこと)」とは異なり、「主人から厳しくとがめられること」という意味である。いきなり鼻を突かれてびっくり、主人や師匠はとても不機嫌な顔をしている、という様子である。
秀才だったらしい信楽は大恥をかき、門下にいられなくなった。親鸞も引き止めなかった様子である。
なお茨城県結城郡八千代町新地(しんち)にも信楽を開基とする弘徳寺がある。「新地」は昔、「新堤」という地名だった。飯山の弘徳寺と同系統の寺院ということである。
神奈川と親鸞 第五十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
信楽と厚木市飯山の弘徳寺⑴─豪族の相馬氏─
相馬師常の墓。鎌倉市扇ガ谷
厚木市飯山の弘徳寺は、開基を親鸞の門弟信楽(しんぎょう)とする二十四輩第五の寺院である。信楽は覚如の『口伝抄』に、京都で親鸞に逆らったと書かれている人物である。弘徳寺の寺伝によれば、信楽は下総国の大豪族相馬氏の系譜を引くという。
まず『新編相模国風土記稿』によると、飯山には古い地蔵堂があったとする。それは聖徳太子の発願によって豪族秦河勝(はたの・かわかつ)が地蔵菩薩像を安置するために建立した建物だったとされている。聖徳太子が観音菩薩の生まれ変わりとされることはよくあるが、地蔵菩薩との関わりで語られることは珍しい。
さて弘徳寺の伝では、信楽は千葉常胤の次男である相馬次郎師常の息子、三郎義清であったという。千葉氏は代々千葉介(ちばのすけ)を称した下総国の大豪族であった。常胤は数人の息子たちとともに源頼朝の挙兵に加わり、鎌倉幕府創立に大きな功績をあげた。
また相馬氏は、平安時代に下総国北部の相馬郡(茨城県)を中心に大勢力を張った平将門の後として知られていた。将門は相馬小次郎と称している。師常は将門の子孫ではないが、子孫の信田師国の養子となって領地を受け継ぎ、新たな相馬氏を興したのである。
師常は、建仁元年(一二〇一)、に父が亡くなったために出家して法然に入門した。六十三歳であった。奇しくも二十九歳の親鸞が法然に入門したのと同じ年である。そこで親鸞と師常とは年齢がかなり違っていても兄弟弟子ということになる。
言及元年(一二〇五)十一月十五日、師常は鎌倉の屋敷で念仏を称えながら亡くなった。『吾妻鏡』同日条に次のようにある。
相馬次郎師常卒す。(中略)端座合掌せしめて、更に動揺せず。
決定往生、敢えてその疑い無し。
「相馬師常が亡くなった。仏前にきっちり座らせてもらい、合掌して念仏しまったく動かなかった。必ず極楽に往生したであろうことは疑いない」。
神奈川と親鸞 第五十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
嘉禄の法難の北条時氏、その後
大慈寺跡の石碑。鎌倉市十二所
比叡山の僧たちが専修念仏の隆盛を嫌い、京都東山の法然の墓所を襲ったのは嘉禄3年(1227)6月12日のことであった。六波羅探題の北条時氏はこれを阻止、宇都宮頼綱に連絡して法然の遺骸を無事に二尊院に送らせた。時氏は弱冠25歳、頼綱は息子経時4歳の婚約者の祖父という近い関係であった。頼綱は親鸞を稲田に招いた武将である。
6月19日、鎌倉では北条政子3回忌のために建立した阿弥陀堂の落慶供養を翌日に控え、執権北条泰時の次男時実が家来に斬り殺されてしまった。まだ16歳であった。知らせを受けた時氏は急ぎ鎌倉に帰った。政子は法然に念仏の教えを受けたことがある。落慶供養は翌7月11日に行なわれ、時氏も出席したことが『吾妻鏡』に記されている。
7月25日、政子供養のために建立されたもう一つの堂の落慶法要が行なわれた。導師として京都から招かれたのが聖覚であった。彼が6年前に書いた『唯信抄』は親鸞が非常に大切にし、自ら書写して多くの門弟たちに与えている。
京都に戻った時氏は六波羅探題の仕事に励んだ。彼は父泰時に非常に期待されていた。しかし寛喜2年(1230)4月、たまたま鎌倉に帰る途中で病気になり、6月18日に亡くなった。その日の『吾妻鏡』の記事には、
年二十八。(中略)嘉禄三年六月十八日次男卒去、四ケ年を隔てて今日此の事有り。
愁傷の至り、喩へ取る物なし。
「4年前の次男時実と同じ日に亡くなった。まことに気の毒なことは喩(たと)えようがない」とある。時氏は鎌倉の大慈寺に葬られた。
この時点で泰時は男子をすべて失った。少なくとも孫の経時が成人するまで政権を安定的に保たなければならない。その有力な方策としての政子供養の一切経校合・書写には、さらに力が込められたであろう。校合は親鸞が任されていた。ちなみに経時も早死にし、その男子二人は経時のあとを継いだ弟時頼のために出家させられている。
神奈川と親鸞 第五十回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
嘉禄の法難と北条時氏(ときうじ)
法然の遺骸を守って二尊院に進む宇都宮頼綱。『拾遺古徳伝絵』(茨城県常福寺蔵)
『吾妻鏡』や北条氏関係の系図によると、幕府第三代執権泰時の息子で名が明らかなのは次の3人である。生没年も合わせて記す。
北条泰時(1183〜1242)──時氏(1203〜1230)──経時(1224〜1248)
├時実(1212〜1227)
└公義(1241〜?)
時氏の母は父泰時の正妻で、相模国の大豪族三浦義村の娘であった。ただ、どのような理由によってか離婚し、次に泰時の正妻となった女性から生まれた男子が時実であった。したがって当時の武士の慣習からいえば、泰時の後継者は時実となっていた。
しかし泰時は優れた政治感覚を持っていた時氏を信頼し、自分が執権となった1224年から、時氏を六波羅探題として京都の治安や朝廷対策に当たらせていた。
嘉禄3年(1227)、比叡山延暦寺の僧たちは専修念仏者の隆盛を嫌い、東山の法然の墓所を襲って壊し始めた。それを危険視した時氏は使者を送って次のように制止した。
たとひ勅免ありといふとも、武家にあひふれず、左右なく狼藉をいたす条、はなはだ
自由なり。すべからくあひしづまりて穏便の沙汰をいたすべし。(『拾遺古徳伝絵』)
「もし天皇の許可があっても、六波羅探題に連絡もせず、いきなり乱暴をするのは非常に勝手な振る舞いだ。乱暴はやめて、穏やかに事を進めるべきだ」。
使者と僧たちの押し問答のうちに日が暮れ、僧たちは帰っていった。この間、時氏は在京中の宇都宮頼綱に連絡している。頼綱は下野国から常陸国の大豪族、親鸞を稲田に招いたと推定される人物で、法然の有力門弟、実信房蓮生という法名を持っていた。また彼の孫娘(4歳)は、時氏の長男経時(4歳)の婚約者でもあった。その親しさの中で連絡を受けた頼綱は、数百の騎馬武者で法然の遺骸を守り、夜のうちに北山の二尊院に移している。
この経緯をみると、専修念仏者に対する時氏の同情的な気持をうかがうことができよう。
神奈川と親鸞 第四十九回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
鎌倉市小袋谷の成福寺
亀の窟。成福寺
鎌倉市小袋谷(こぶくろや)にある成福寺は、北条泰時の末男泰次が貞永元年(1232)に親鸞の門弟の成仏となって開いた寺院とされている。小袋谷は、JR大船駅から東海道線を分かれて南東に下る横須賀線に乗って、北鎌倉駅に至る中間の地域である。成福寺は北鎌倉駅に向かって左側の線路沿いに建っている。
『新編相模国風土記稿』成福寺の項に次のように記されている。
寺伝に云、成仏は北条泰時の末男にて、初めは泰次と称す。親鸞鎌倉八幡社にて
大蔵経校合の時、泰次謁して彼宗に帰依し、遂に師資の約をなし、
薙髪して名を成仏と改め、当所の窟に在りて念仏修行の時、
明星天子の霊告を感得し、当寺を起立すとなり。
今、堂後にある亀の窟は、即成仏幽栖の跡なりと云。
「成福寺の伝えによれば、成仏は北条泰時の末の男子で、初めは泰次という名でした。親鸞が鎌倉鶴岡八幡宮で一切経の校合をした時、泰次は親鸞にお目にかかって念仏の教えに入りました。そしてとうとう師弟の契約をし、髪を下ろして法名を成仏としました。成仏が今の成福寺の場所にある窟の中で念仏修行をしていた時、明星天子のお告げをいただいて成福寺を建立したのです。現在、寺の建物のうしろにある亀の窟は、成仏がひっそりと暮らした住居の跡と言われています」。
文中、明星天子は虚空蔵菩薩と同体とされている。弘法大師空海は四国の室戸岬で修行していた時、明星が口の中に飛び込んできて導かれたという。また親鸞53歳の時、常陸国の稲田から下野国高田に入った時、やはり明星天子の指導を受けたとされている。一連の伝えは興味深い。
親鸞はこの年60歳、関東生活を終えて京都に帰った歳と推定される。成仏は関東生活最後のころの門弟ということになろうか。また幕府の執権北条泰時は、直接間接に親鸞と関わりが深い。次回は泰時の長男時氏について触れたい。
神奈川と親鸞 第四十八回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
了心と横浜市栄区の光明寺
光明寺本堂
横浜市栄区上郷町の光明寺は、もと天台宗の仙福寺であった。聖徳太子草創の寺院であったという。その仙福寺第五十二世の住職了恵の時、安貞年間(1227〜1229)、鎌倉郡に来た親鸞の門に入って教えを受けるようになったと伝えられている。それは親鸞が55歳から57歳のころであった。『新編相模国風土記稿』の光明寺の項には、次のように記されている。当時、栄区付近は鎌倉郡に属していた。
五十二世の僧了恵が時、執権北条泰時親鸞を招き、鶴岡にて蔵経校合あり。
時に了恵、親鸞に帰依し、終に師弟の約をなし、当宗となりて名を了心と改む。
「五十二世住職の了恵の時、執権北条泰時が親鸞を招き、鶴岡八幡宮において一切経の校合事業が行なわれました。その時、了恵は親鸞の門に入って師弟の契約を結びました。仙福寺も浄土真宗となり、了恵は了心と名を改めました」。
親鸞が鎌倉に姿を現わすようになったのは、55〜56歳のころと推定される。それは、北条泰時が伯母政子供養のための一切経書写の準備として、親鸞に一切経校合を依頼したからと考えられる。これは覚如の『口伝抄』に記されている話である。
泰時は大恩ある政子のため、そして自らの政治基盤を固めるため、一切経を書写して政子が崇敬していた三井寺に奉納する企画を立てた。一切経は大蔵経ともいう。経典全部という意味である。中国・朝鮮以来、大乗仏典は5千数百点存在するとされてきた。それぞれの経典の文章・文字の異同を調べ、どれが正しいかを決める作業が校合である。その作業が親鸞が任されたということである。経典についてのよほどの知識と識見がなければできない。52歳で『教行信証』を執筆したばかりの親鸞は、まさに適任とされたのであろう。
また親鸞は7体の聖徳太子像を造立して付近の寺院に配置したとされる。これを鎌倉七太子と称している。光明寺にも配置されたけれども、失われてしまったという。
神奈川と親鸞 第四十七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
了源(伊東祐光)と横浜市戸塚区の長光寺
長光寺山門
大磯町・善福寺の開基は伊東祐親の孫河津三郎信之とされている。南足柄市・善福寺の開基は、祐親の孫の四郎祐光とされている。いずれも親鸞の弟子で、法名は了源である。
ところで、横浜市栄区小菅ヶ谷の長光寺の開基も祐光で、法名は同じく了源である。系図を見れば次のようになっている。
伊東祐親─┬九郎祐清──────────祐光
└河津三郎祐泰─曽我十郎祐成─河津三郎信之
祐親は源頼朝の捕虜となって自刃、祐清は戦死、祐泰と祐成も殺されているから、彼らが生きた鎌倉時代は凄まじい時代であった。
長光寺の伝えによれば、祐親は伊豆国に流されてきた文覚から自作の薬師如来像を贈られた。この像は祐親から祐清に渡った。祐清が戦死すると、息子の祐光は母と妻とともに鎌倉に来て出家して道意と名のり、小菅ヶ谷に父の菩提を弔うために寺院を建てて東照山医王院と号したという。「医王」というのは、薬師如来の別名である。『新編相模国風土記稿』の長光寺の項に次のようにある。
開山を道意と云ふ〔寺伝に、意は伊藤九郎祐清の子、(中略)父が崇敬せし薬師如来を本尊とす。
文中の「伊藤」は「伊東」が正しい。
道意は後に親鸞の門に入り、法名を淳心房了源と改め、寺も浄土真宗に改めたという。さらに了源の孫了諦(りょうてい)の時、本願寺第三世の覚如から長光寺の寺号を授けられたとされる。
文覚の薬師如来像は、通称「花立薬師(はなたて・やくし)」といい、現在も長光寺に伝えられている。また親鸞は七体の聖徳太子像を刻んだといい、そのうちの一体と伝えられる太子像も、長光寺に伝えられている。
神奈川と親鸞 第四十六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
南足柄市の善福寺と「倶会一処の郷」
善福寺の本堂
南足柄市怒田(ぬた)の善福寺の開基は、親鸞六老僧の一人である了源である。善福寺の伝えでは、了源は伊豆東海岸の大豪族伊東祐親の孫祐光であった。祐親の娘は北条時政と結婚して義時や政子を生み、また別の娘は源頼朝と結ばれて千鶴丸(ちずるまる)を生んでいる。頼朝の最初の子である。
しかし治承4年(1180)挙兵した頼朝・時政を鎮圧すべく戦って捕虜となり、命を助けられたものの恥じて自ら死を選んだ。それは現在の逗子市鐙摺(あぶずり)の地においてであったという。
ところで善福寺には「倶会一処の郷」がある。これは犬や猫など、ペットも一緒に入ることのできる新しい形式の家族墓である。従来、(人間の)墓所あるいは寺院の境内にペットを埋葬することは難しいことであった。農家の人が畑の端や林の近くなどに犬や猫、あるいは牛馬を埋葬することは昔から行なわれていた。その際、短い木の枝二本をT字形に縛り、墓標として立てることも行なわれていた。筆者も実際に何度か見たことがある。
近年では、境内の目立たない隅の所にT字形墓標があるのを見たことがある。また境内に広く立派な墓石付きの分譲墓地がある寺院もある。そきには付随して小さなお堂が建っていて、その中は生前のペットが好きだったお菓子や、ゆかりの服などがきれいなケースの中に収められていた。いずれも浄土真宗寺院である。
しかし善福寺のような家族墓は珍しい。善福寺では「言うまでもなく、ペットはかけがえのない大切な家族です」「人の命もペットの命も、等しく尊いものです」という考えのもとに、「特別限定区画ということで家族墓が実現いたしましした」(同寺案内パンフレットより)そうである。それが「倶会一処の郷」である。
親鸞の時代のことではないけれども、今回は新しい時代に向けての寺院のあり方の一つとして善福寺の「倶会一処の郷」を紹介した。
神奈川と親鸞 第四十五回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
南足柄市の善福寺と了源─曽我兄弟の従兄弟─
了源上人坐像。南足柄市怒田・善福寺蔵
南足柄市怒田(ぬた)の善福寺の開基は、大磯町の善福寺と同じく、六老僧の第二である了源である。ただし、大磯町の方では、了源は曽我兄弟の兄である河津十郎祐成の息子河津信之としていたが、南足柄市の方では、曽我兄弟の叔父祐清の子四郎祐光であったとしている。
伊東祐親×─┬─祐清×──四郎祐光(了源)
└─祐泰×─┬十郎祐成×
└五郎時致×
上記の系図中、×印のついている者は殺された人である。祐光も父が殺された後、母の出身の狩野氏に養われた。成人後に鎌倉幕府に出仕し、伊豆国の河津荘をもらって活躍したという。
しかし祐光は一族の多くが殺されるという状況に思うところも多く、とうとう世を捨てて出家した。嘉禄元年(1225)のことであった。後に国府津の勧堂(すすめどう)で念仏の教えを説いていた親鸞の門に入り、善念房了源という名をいただいたという。そして大磯の地に善福寺を建てた。親鸞が相模国で活躍するのは嘉禄3年のころからのようなので、了源もそのころに親鸞の門弟になったと推定される。
延応元年(1239)、了源は南足柄市壗下(まました)に阿弥陀堂を建立した。この阿弥陀堂が南足柄市怒田(ぬた)・善福寺の起こりとされている。
壗下には、戦国時代に大磯の善福寺が移ってきたこともあるという。しかしその末期の永禄4年(1561)にはもとの大磯に戻った。壗下の善福寺は、その後、近くの酒匂川の氾濫を避けて近くの高台に移った。それが現在の怒田の地である。
なお、親鸞の門弟としての「六老僧」は、覚如が定めたと考えられる「二十四輩」(『改邪鈔(がいじゃしょう)』)より後で作られた概念と推定される。