神奈川と親鸞 前編53回

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神奈川と親鸞 第五十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
信楽と厚木市飯山の弘徳寺⑵─「突鼻(とっぴ)にあずかった」信楽─

弘徳寺本堂。厚木市飯山

弘徳寺本堂。厚木市飯山

 飯山の弘徳寺の寺伝によれば、開基の信楽は稲田草庵に親鸞を訪ねてその門に入ったという。後に親鸞が飯山に来た時、聖徳太子の由緒を喜んで草庵を結び、付近で布教し、やがて信楽にその草庵を託したとする。
 親鸞の帰京後、信楽も京都に上ってその指導を受けていた。しかしある時、信楽は親鸞の機嫌を損ねてしまった。そのことを覚如の『口伝抄』第六項に次のように書いてある。
  
  常陸国の新堤(にいづつみ)の信楽坊、聖人【親鸞】の御前にて、法文の義理ゆゑに
  仰せをもちゐまうさざるによりて、突鼻にあづかりて本国に下向、

「常陸国新堤の信楽房は、親鸞聖人の前で、経典の解釈で聖人とは異なる解釈を主張したので、激しく叱られてしまった。そして門下としてはいられなくなり、故郷に帰ることになった」。
 信楽はおそらく多くの経典を読み、学び、かなりの自信を持っていたのであろう。そしてつい親鸞の前で、あるいは他の門弟をまじえた勉強会で親鸞とは異なる意見を主張したということであろう。当然、逆らおうなどと思っていたのではない。親鸞が折れてくれて、「信楽、さすがだな」と褒めてくれるだろうと期待したと思われる。
 ところが甘い期待に反して、信楽は厳しく叱られた。「突鼻(とっぴ)」は「突飛(とっぴ。あまりにも思いがけないありさま。奇抜なこと)」とは異なり、「主人から厳しくとがめられること」という意味である。いきなり鼻を突かれてびっくり、主人や師匠はとても不機嫌な顔をしている、という様子である。
 秀才だったらしい信楽は大恥をかき、門下にいられなくなった。親鸞も引き止めなかった様子である。
 なお茨城県結城郡八千代町新地(しんち)にも信楽を開基とする弘徳寺がある。「新地」は昔、「新堤」という地名だった。飯山の弘徳寺と同系統の寺院ということである。

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