神奈川と親鸞 前編50回

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神奈川と親鸞 第五十回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
嘉禄の法難と北条時氏(ときうじ)

法然の遺骸を守って二尊院に進む宇都宮頼綱。『拾遺古徳伝絵』(茨城県常福寺蔵) 

法然の遺骸を守って二尊院に進む宇都宮頼綱。『拾遺古徳伝絵』(茨城県常福寺蔵)

 『吾妻鏡』や北条氏関係の系図によると、幕府第三代執権泰時の息子で名が明らかなのは次の3人である。生没年も合わせて記す。

北条泰時(1183〜1242)──時氏(1203〜1230)──経時(1224〜1248)
            ├時実(1212〜1227)
            └公義(1241〜?)

 時氏の母は父泰時の正妻で、相模国の大豪族三浦義村の娘であった。ただ、どのような理由によってか離婚し、次に泰時の正妻となった女性から生まれた男子が時実であった。したがって当時の武士の慣習からいえば、泰時の後継者は時実となっていた。
 しかし泰時は優れた政治感覚を持っていた時氏を信頼し、自分が執権となった1224年から、時氏を六波羅探題として京都の治安や朝廷対策に当たらせていた。
 嘉禄3年(1227)、比叡山延暦寺の僧たちは専修念仏者の隆盛を嫌い、東山の法然の墓所を襲って壊し始めた。それを危険視した時氏は使者を送って次のように制止した。
  たとひ勅免ありといふとも、武家にあひふれず、左右なく狼藉をいたす条、はなはだ
  自由なり。すべからくあひしづまりて穏便の沙汰をいたすべし。(『拾遺古徳伝絵』)
「もし天皇の許可があっても、六波羅探題に連絡もせず、いきなり乱暴をするのは非常に勝手な振る舞いだ。乱暴はやめて、穏やかに事を進めるべきだ」。
 使者と僧たちの押し問答のうちに日が暮れ、僧たちは帰っていった。この間、時氏は在京中の宇都宮頼綱に連絡している。頼綱は下野国から常陸国の大豪族、親鸞を稲田に招いたと推定される人物で、法然の有力門弟、実信房蓮生という法名を持っていた。また彼の孫娘(4歳)は、時氏の長男経時(4歳)の婚約者でもあった。その親しさの中で連絡を受けた頼綱は、数百の騎馬武者で法然の遺骸を守り、夜のうちに北山の二尊院に移している。
 この経緯をみると、専修念仏者に対する時氏の同情的な気持をうかがうことができよう。

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