神奈川と親鸞 前編60回

神奈川と親鸞 第六十回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑸─親鸞の家族観─

日野有範画像。写本。個人蔵

日野有範画像。写本。個人蔵


 親鸞は家族という存在をどのように見ていたであろうか。親鸞は9歳の時に出家して比叡山延暦寺に入った。父日野有範が詳細は未詳ながら政治的に大きな失敗をして出家し、親鸞を頭とする息子5人も出家しなければならなかった。
 親鸞が出家した9歳は、数え歳である。現代で言えば小学校2年生か3年生である。そこから20年間の他人の中での生活で、親鸞は別れてきた親兄弟をどのように思っていたであろうか。教えてもらいたい時も、甘えたい時もあったであろう。
 親鸞は自分の気持とし家族について述べた文章はない。しかし76歳の時、初めて執筆した『浄土和讃』『高僧和讃』のうち、後者の最初の「龍樹菩薩」の項で述べた文が、幼いころの切ない気持を表現しているのではないだろうか。この項全10首のうち第9首と第10首に次のようにある。

  一切菩薩のの給はく われら因地にありしとき
   無量劫をへめぐりて 万善諸行を修せしかど (第9首)
  恩愛はなはだたちがたく 生死はなはだつきがたし
   念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せし (第10首)

「すべての菩薩が言われることには、私が修行をしていた時、無数の年月に悟りのためには善いとされる修行をしてきましたが」、「親子・夫婦の縁に対する執着心を断ち切ることはできず、悟りには至れませんでした。念仏をひたすら称えてやっと悪行を消して悟りに至れました」
 若いころの親鸞は、いくら厳しい修行をしても悟りに至れない最後の理由は家族に対する愛情だ、と自覚していたのではないだろうか。
 では善鸞義絶が言われる親鸞80代のころ、息子善鸞についてどのように思っていたのであろうか。

神奈川と親鸞 前編59回

神奈川と親鸞 第五十九回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
  親鸞と善鸞⑷─親鸞からもらった名号─

伝善鸞筆名号。福島県白河市・常瑞寺蔵

伝善鸞筆名号。福島県白河市・常瑞寺蔵


 覚如に関する伝記絵巻である『最須敬重絵詞』に、覚如が馬に乗っている姿を見たことが記されている。このシリーズの前回に取り上げたお札(ふだ)に引き続く挿話として載せているので、正応3年(1290)、覚如21歳の時のことである。
 幕府の執権で相模守であった北条貞時が由比ヶ浜へ出る行列で、二、三百騎の家来の男女や僧尼が入り混じっている中に、善鸞も加わっていた。その様子は、

  聖人よりたまはられける無㝵光如来の名号のいつも身をはなたれぬを頸にかけ、
  馬上にても他事なく念仏せられけり。

 「親鸞からいただいた「帰命尽十方無㝵光如来」の名号を、それはいつも身に着けていたものですが、首にかけ、馬に乗っていても他のことを気にかけることもなく念仏を称えておられた」。
 この時善鸞は推定89歳、元気なものである。関東へ来てからすでに40年近く経っている。このシリーズ前回に取り上げたお札に関して言えば、関東へ来たばかりの50歳過ぎのことではないのである。関東の人々に親鸞の念仏を伝えるにはどのようにしたらよいか、善鸞なりに考えた結果の方法である。由比ヶ浜への行列では、善鸞は親鸞からもらった名号を首にかけて念仏を称えている。
 その後覚如は常陸国でも善鸞の姿を見ている。ここでは地元の豪族小田知頼が鹿島神宮へ参詣するお供であった。親鸞没後約三十年、善鸞は親鸞を崇拝している。

  そのときも本尊の随身といひ、騎中の称名といひ、関東の行儀にすこしもたがはず。

 「関東(執権)のお供の様子と少しも変わってなかった」と述べている。
 また『最須敬重絵詞』には、親鸞が京都五条西洞院に住んでいたある冬のころ、親鸞と善鸞が火鉢を間にして親しげに語り合っている様子が述べられ、また該当部分の絵にも同じように描かれている。

神奈川と親鸞 前編58回

神奈川と親鸞 第五十八回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑶─善鸞の病気をなおす?「まじない札」─

如信坐像。大子町上金沢・法龍寺蔵。本稿では修復前の像の写真を掲載

如信坐像。大子町上金沢・法龍寺蔵。本稿では修復前の像の写真を掲載


 覚如に関する伝記絵巻の『最須敬重絵詞』に、善鸞に関する有名な挿話がある。本書は文和元年(1352)に、覚如の高弟乗専が制作した。善鸞は符(ふ。まじない札)で病気を治そうとしたという。善鸞が怪しげな教えを説いたという一番の根拠になった挿話である。
 正応三年(1290)、覚如は父の覚恵とともに東国の親鸞遺跡巡拝の旅に出た。途中、常陸国小柿の山中で温病(うんびょう。熱性の風邪)になってしまった。身体も痛くて横になっていたところ、たまたま近くにいた善鸞と如信の親子が見舞いに来てくれた。
 善鸞は「私はお札(ふだ)でなんでも災難をなおすことができる。お札に呪文を書いてあげるから、それを飲みなさい」と書いて覚如に渡そうとした。しかし覚如は「飲みたくない」と思い、熱にうかされているふりをして受け取らなかった。すると、

  厳親枕にそふて坐し給けるが、本人辞遁の気をば見給ながら、片腹痛とや思給けん、
  それそれと勧らる。信上人、又そばにて取継て、やがて手にてわたし給ける、

 「父覚恵は覚如の枕元に座っていて、覚如がお札を嫌がっているのを見て、けしからんことと思われたのだろう、早く飲みなさいと催促された。如信上人は善鸞からお札を受け取ってすぐ覚如に手渡されたところ」ということなった。つまり、善鸞はもちろん覚恵も如信も、みんな覚如にお札を飲まそうとしている。そして乗専はこの挿話を、

  かの符術も名号加持の力をもととせられけるにや、
  もちゐる人はかならずその勝利むなしからざりけり。

 「善鸞のお札も、南無阿弥陀仏の名号の力がもとになっているからであろうか、飲む人は必ず優れた効果があったのである」。と締めくくった。覚如の高弟乗専も本気でお札の効果を認めている。お札のことで非難されるなら、それは善鸞だけではないということである。
 またこの挿話は『慕帰絵』にも相模国の余綾(ゆろぎ。ゆるぎ。大磯から国府津あたり)山中のこととして載っている。

神奈川と親鸞 前編57回

神奈川と親鸞 第五十七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑵─善鸞はほんとうに義絶されたのか?─

善鸞坐像。厚木市飯山・弘徳寺蔵。同寺蔵の信楽坐像と似た風貌

善鸞坐像。厚木市飯山・弘徳寺蔵。同寺蔵の信楽坐像と似た風貌


 現代では、親鸞の息子善鸞は親に背いた親不孝者で、とうとう父から親子の縁を切られた(義絶。勘当)と思われている。それは親鸞84歳のころで、親鸞最晩年の大悲劇、親鸞はお気の毒であった、とされている。しかし、はたしてそれは事実であったろうか。
 覚如は「本願寺」の名称を創設し、本願寺教団の基礎を固めた人物であるが、彼が親鸞を本願寺第一世としたのはごく当然ながら、第二世を善鸞の息子如信としているのは非常に興味深い。そして第三世は覚如自身である。これらの人々の関係を系図で示すと次のようになる。

親鸞①──善鸞──如信②
┃        ┃
┃       ┌光玉
┠───覚信尼─覚恵──覚如③
恵信尼

 如信は幼児から親鸞の教えを受け、人格優れた人物として知られていた。覚如も如信の教えを受けている。覚如がその如信を本願寺第二世に据えるのは当然ながら、しかしその父の善鸞が親鸞をひどい目にあわせ、親鸞から縁を切られたのだったら、息子如信を第二世に据えることができるであろうか。覚如は会う人ごとにいちいち弁解しなければなるまい。それなら第二世に覚信尼または覚恵を据えるという選択肢もあったはずである。
 現代のいわゆる真宗十派のうち、第二世を如信としているのは実は真宗大谷派・浄土真宗本願寺派・真宗木辺派の三派だけである。他の七派はそれぞれゆかりの人物を第二世に据えている。そして、そのうちの二つの派が第二世に善鸞を据えているのである。ほんとう義絶されていたのであったら、そうはいくまい。
 次回から善鸞に関するいくつかの挿話を検討していきたい。

神奈川と親鸞 前編56回

神奈川と親鸞 第五十六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

親鸞と善鸞⑴─善鸞の墓所─

善鸞墓所。厚木市飯山・弘徳寺墓所

善鸞墓所。厚木市飯山・弘徳寺墓所


 厚木市飯山の弘徳寺には親鸞の息子善鸞の墓所がある。本堂の右手奥、畑を隔てた小高い丘の墓地の入り口あたりの、土饅頭型の墓所である。
 土饅頭型の墓所は、鎌倉時代に多くの豪族の墓所として造られていた。例えば、貞応元年(1222)に亡くなった河野通信の墓所(岩手県奥州市江刺区にある)がこの土饅頭型である。通信は伊予国(愛媛県)の大豪族で鎌倉幕府創業に力を尽くした武将、また時宗の開祖一遍(藤沢市に本山の遊行寺がある)の祖父でもある。一遍は踊り念仏で知られており、法然の曾孫弟子にあたっているから、親鸞とも無関係ではない。この一遍の伝記絵巻である『一遍聖絵』に描かれている通信の墓所を見ると、善鸞の墓所によく似ている。
 鎌倉時代には、亡くなった人が貴族または有力豪族ならば法華堂の下に埋葬するのが一般的であった(鎌倉市西御門の源頼朝と北条義時の墓所など)。僧侶ならば火葬にして木の下に埋葬したり、五輪塔の中に安置したりした(鎌倉市極楽寺の忍性塔など)。
 俗人ならば村はずれに遺体を置いてくるのが一般であった。夫婦が同じ所に埋葬される慣行ができるのは室町時代になってからである。そして現在のように「〜家の墓」という」家族墓が成立するのは江戸時代も元禄のころになってからである。
 筆者(今井)が初めて弘徳時の墓所にお参りしたころ、それは30数年前だったろうか、表面をコンクリートで固める途中であった。察するに、土饅頭の土が少しずつ落ちて、そのままにしておくと崩れるという結果になってしまうからであろう。
 弘徳寺の寺伝によれば、善鸞は晩年にこの寺に住み、弘安元年に(1278)に亡くなったという。いつの時点かに豪族風の墓所が作られて今日に伝えられているのである。歴史的遺跡としても貴重である。 
 なお善鸞の墓所は、福島県西白河郡泉崎村にもある。

神奈川と親鸞 前編55回

神奈川と親鸞 第五十五回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
信楽と厚木市飯山の弘徳寺⑷─再入門した信楽─

信楽坐像。厚木市飯山・弘徳寺蔵

信楽坐像。厚木市飯山・弘徳寺蔵


 飯山の弘徳寺の開基信楽は、京都で親鸞に叱られて門下を離れ、故郷に帰った。その後また京都に上って親鸞に許された、と弘徳寺の寺伝は伝えている。その時に親鸞から八十八歳の寿像(じゅぞう)を与えられた。これが現在も弘徳寺に安置されている「親鸞聖人坐像」であるという。
 寿像とは、その人の生前に制作された彫刻または絵画の肖像のことである。このような肖像は、その人が亡くなってから制作するのが普通だった。生前に制作すると、その人の生きる力を吸い取ってしまうからよくない、と思われていたからである。特例で生前に制作したのを「寿像」と称している。
 さらに弘徳寺の寺伝によると、親鸞没後、如信から親鸞の遺骨をもらって「親鸞聖人坐像」の胎内に納めて尊崇したという。
 同じく信楽を開基とする茨城県結城郡八千代町新地の弘徳寺の寺伝では、許されたのは親鸞の曾孫覚如からであったとする。江戸時代の『遺徳法輪集』弘徳寺の項によると、覚如が諸国を巡った時、この寺の前を通り過ぎると勤行の様子が浄土真宗らしかった。そこで覚如はその寺に入って事情を聞いてみた。覚如が関東に来たのは正応3年(1290)のこと、親鸞没後30年近く経っている。かなり高齢になっていたが信楽はまだ存命で、

  不思議の幸いとよろこび、信楽房突鼻にあづかりしむねを申しまひらせ、
  改悔の旨をひらき廻心の涙を流し、願くば免を蒙りたきと申されければ、

「こんなこともあるのかと喜び、親鸞聖人に突鼻にあずかった状況をお話しし、「あの時はすみませんでした。今は私が悪かったと反省しています」と涙を流し、「できればお許しをいただき、また聖人の御門下に戻りたいです」と願いました。
 覚如はこれを聞いて、反省して心を入れ替えたのなら特に問題はないだろうと門下に戻ることを許したというのである。

神奈川と親鸞 前編54回

神奈川と親鸞 第五十四回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
 信楽と厚木市飯山の弘徳寺⑶─信楽が与えられた本尊と聖教─

小島草庵跡。蓮位はここに三月寺を建立した。 茨城県下妻市小島 

小島草庵跡。蓮位はここに三月寺を建立した。 茨城県下妻市小島

 信楽が師匠の親鸞に叱られ、門下を離れて故郷に帰ることになった時、意見をいう者がいた。親鸞に親しく仕え、日常のお世話をしていた蓮位(れんに)という人物である。常陸国小島付近の出身である。
 蓮位は、「信楽房がご門下をやめて帰国するというのなら、お師匠様が信楽房に授与してあったご本尊の名号や教典類を返上させるべきではありませんか。特に書名の下に「釈親鸞」と名を書かれた経典類は多いですし。信楽房がご門下を離れるなら、きっとそのご本尊や経典を大切にすることはなくなってしまうでしょうから」と述べたのである。このように覚如の『口伝抄』には記されている。
 すると親鸞は、「いや、そのように取り返すことは決して行なってはいけません」と答えたといいます。その理由は、

  たとひかの聖教を山野にすつといふとも、そのところの有情群類、かの聖教にすくは
  れてことごとくその益をうくべし。しからば衆生利益の本懐、そのときに満足すべし。

「もし信楽がその本尊や経典類を山や野に捨てたとしても、そこに住んでいる者たちがその経典類を拾うこともあるでしょう。そうすればその人たちはその本尊や経典によって念仏の教えに導かれ、皆、極楽往生という恩恵にあずかれるでしょう。その結果、すべての人々を救おうという阿弥陀仏の願いは成就することになります」ということだったのである。
 あわせて親鸞は、

  凡夫の執するところの財宝のごとくに、とりかへすといふ義あるべからざるなり。
  よくよくこころうべし。

「私たちがややもすれば執着する財宝と同じように本尊・経典を扱い、取り返そうなどと考えてはいけません」と強く戒めている。

神奈川と親鸞 前編53回

神奈川と親鸞 第五十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
信楽と厚木市飯山の弘徳寺⑵─「突鼻(とっぴ)にあずかった」信楽─

弘徳寺本堂。厚木市飯山

弘徳寺本堂。厚木市飯山

 飯山の弘徳寺の寺伝によれば、開基の信楽は稲田草庵に親鸞を訪ねてその門に入ったという。後に親鸞が飯山に来た時、聖徳太子の由緒を喜んで草庵を結び、付近で布教し、やがて信楽にその草庵を託したとする。
 親鸞の帰京後、信楽も京都に上ってその指導を受けていた。しかしある時、信楽は親鸞の機嫌を損ねてしまった。そのことを覚如の『口伝抄』第六項に次のように書いてある。
  
  常陸国の新堤(にいづつみ)の信楽坊、聖人【親鸞】の御前にて、法文の義理ゆゑに
  仰せをもちゐまうさざるによりて、突鼻にあづかりて本国に下向、

「常陸国新堤の信楽房は、親鸞聖人の前で、経典の解釈で聖人とは異なる解釈を主張したので、激しく叱られてしまった。そして門下としてはいられなくなり、故郷に帰ることになった」。
 信楽はおそらく多くの経典を読み、学び、かなりの自信を持っていたのであろう。そしてつい親鸞の前で、あるいは他の門弟をまじえた勉強会で親鸞とは異なる意見を主張したということであろう。当然、逆らおうなどと思っていたのではない。親鸞が折れてくれて、「信楽、さすがだな」と褒めてくれるだろうと期待したと思われる。
 ところが甘い期待に反して、信楽は厳しく叱られた。「突鼻(とっぴ)」は「突飛(とっぴ。あまりにも思いがけないありさま。奇抜なこと)」とは異なり、「主人から厳しくとがめられること」という意味である。いきなり鼻を突かれてびっくり、主人や師匠はとても不機嫌な顔をしている、という様子である。
 秀才だったらしい信楽は大恥をかき、門下にいられなくなった。親鸞も引き止めなかった様子である。
 なお茨城県結城郡八千代町新地(しんち)にも信楽を開基とする弘徳寺がある。「新地」は昔、「新堤」という地名だった。飯山の弘徳寺と同系統の寺院ということである。

神奈川と親鸞 前編52回

神奈川と親鸞 第五十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
信楽と厚木市飯山の弘徳寺⑴─豪族の相馬氏─

相馬師常の墓。鎌倉市扇ガ谷

相馬師常の墓。鎌倉市扇ガ谷

 厚木市飯山の弘徳寺は、開基を親鸞の門弟信楽(しんぎょう)とする二十四輩第五の寺院である。信楽は覚如の『口伝抄』に、京都で親鸞に逆らったと書かれている人物である。弘徳寺の寺伝によれば、信楽は下総国の大豪族相馬氏の系譜を引くという。
 まず『新編相模国風土記稿』によると、飯山には古い地蔵堂があったとする。それは聖徳太子の発願によって豪族秦河勝(はたの・かわかつ)が地蔵菩薩像を安置するために建立した建物だったとされている。聖徳太子が観音菩薩の生まれ変わりとされることはよくあるが、地蔵菩薩との関わりで語られることは珍しい。
 さて弘徳寺の伝では、信楽は千葉常胤の次男である相馬次郎師常の息子、三郎義清であったという。千葉氏は代々千葉介(ちばのすけ)を称した下総国の大豪族であった。常胤は数人の息子たちとともに源頼朝の挙兵に加わり、鎌倉幕府創立に大きな功績をあげた。
 また相馬氏は、平安時代に下総国北部の相馬郡(茨城県)を中心に大勢力を張った平将門の後として知られていた。将門は相馬小次郎と称している。師常は将門の子孫ではないが、子孫の信田師国の養子となって領地を受け継ぎ、新たな相馬氏を興したのである。
 師常は、建仁元年(一二〇一)、に父が亡くなったために出家して法然に入門した。六十三歳であった。奇しくも二十九歳の親鸞が法然に入門したのと同じ年である。そこで親鸞と師常とは年齢がかなり違っていても兄弟弟子ということになる。
 言及元年(一二〇五)十一月十五日、師常は鎌倉の屋敷で念仏を称えながら亡くなった。『吾妻鏡』同日条に次のようにある。
  相馬次郎師常卒す。(中略)端座合掌せしめて、更に動揺せず。
  決定往生、敢えてその疑い無し。
「相馬師常が亡くなった。仏前にきっちり座らせてもらい、合掌して念仏しまったく動かなかった。必ず極楽に往生したであろうことは疑いない」。

神奈川と親鸞 前編51回

神奈川と親鸞 第五十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
嘉禄の法難の北条時氏、その後

大慈寺跡の石碑。鎌倉市十二所

大慈寺跡の石碑。鎌倉市十二所

 比叡山の僧たちが専修念仏の隆盛を嫌い、京都東山の法然の墓所を襲ったのは嘉禄3年(1227)6月12日のことであった。六波羅探題の北条時氏はこれを阻止、宇都宮頼綱に連絡して法然の遺骸を無事に二尊院に送らせた。時氏は弱冠25歳、頼綱は息子経時4歳の婚約者の祖父という近い関係であった。頼綱は親鸞を稲田に招いた武将である。
 6月19日、鎌倉では北条政子3回忌のために建立した阿弥陀堂の落慶供養を翌日に控え、執権北条泰時の次男時実が家来に斬り殺されてしまった。まだ16歳であった。知らせを受けた時氏は急ぎ鎌倉に帰った。政子は法然に念仏の教えを受けたことがある。落慶供養は翌7月11日に行なわれ、時氏も出席したことが『吾妻鏡』に記されている。
 7月25日、政子供養のために建立されたもう一つの堂の落慶法要が行なわれた。導師として京都から招かれたのが聖覚であった。彼が6年前に書いた『唯信抄』は親鸞が非常に大切にし、自ら書写して多くの門弟たちに与えている。
 京都に戻った時氏は六波羅探題の仕事に励んだ。彼は父泰時に非常に期待されていた。しかし寛喜2年(1230)4月、たまたま鎌倉に帰る途中で病気になり、6月18日に亡くなった。その日の『吾妻鏡』の記事には、

  年二十八。(中略)嘉禄三年六月十八日次男卒去、四ケ年を隔てて今日此の事有り。
  愁傷の至り、喩へ取る物なし。

 「4年前の次男時実と同じ日に亡くなった。まことに気の毒なことは喩(たと)えようがない」とある。時氏は鎌倉の大慈寺に葬られた。
 この時点で泰時は男子をすべて失った。少なくとも孫の経時が成人するまで政権を安定的に保たなければならない。その有力な方策としての政子供養の一切経校合・書写には、さらに力が込められたであろう。校合は親鸞が任されていた。ちなみに経時も早死にし、その男子二人は経時のあとを継いだ弟時頼のために出家させられている。