神奈川と親鸞 前編56回

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神奈川と親鸞 第五十六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

親鸞と善鸞⑴─善鸞の墓所─

善鸞墓所。厚木市飯山・弘徳寺墓所

善鸞墓所。厚木市飯山・弘徳寺墓所


 厚木市飯山の弘徳寺には親鸞の息子善鸞の墓所がある。本堂の右手奥、畑を隔てた小高い丘の墓地の入り口あたりの、土饅頭型の墓所である。
 土饅頭型の墓所は、鎌倉時代に多くの豪族の墓所として造られていた。例えば、貞応元年(1222)に亡くなった河野通信の墓所(岩手県奥州市江刺区にある)がこの土饅頭型である。通信は伊予国(愛媛県)の大豪族で鎌倉幕府創業に力を尽くした武将、また時宗の開祖一遍(藤沢市に本山の遊行寺がある)の祖父でもある。一遍は踊り念仏で知られており、法然の曾孫弟子にあたっているから、親鸞とも無関係ではない。この一遍の伝記絵巻である『一遍聖絵』に描かれている通信の墓所を見ると、善鸞の墓所によく似ている。
 鎌倉時代には、亡くなった人が貴族または有力豪族ならば法華堂の下に埋葬するのが一般的であった(鎌倉市西御門の源頼朝と北条義時の墓所など)。僧侶ならば火葬にして木の下に埋葬したり、五輪塔の中に安置したりした(鎌倉市極楽寺の忍性塔など)。
 俗人ならば村はずれに遺体を置いてくるのが一般であった。夫婦が同じ所に埋葬される慣行ができるのは室町時代になってからである。そして現在のように「〜家の墓」という」家族墓が成立するのは江戸時代も元禄のころになってからである。
 筆者(今井)が初めて弘徳時の墓所にお参りしたころ、それは30数年前だったろうか、表面をコンクリートで固める途中であった。察するに、土饅頭の土が少しずつ落ちて、そのままにしておくと崩れるという結果になってしまうからであろう。
 弘徳寺の寺伝によれば、善鸞は晩年にこの寺に住み、弘安元年に(1278)に亡くなったという。いつの時点かに豪族風の墓所が作られて今日に伝えられているのである。歴史的遺跡としても貴重である。 
 なお善鸞の墓所は、福島県西白河郡泉崎村にもある。

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