Web連載「神奈川と親鸞」「法然聖人とその門弟の教学」

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今井雅晴先生「神奈川と親鸞」

前田壽雄先生「法然聖人とその門弟の教学」

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神奈川と親鸞 前編15回

神奈川と親鸞 第十五回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

 仲間の念仏者たち⑷ 宇都宮頼綱➂―親鸞を常陸稲田に招く―

稲田頼重墓所。笠間市稲田・西念寺の境内

稲田頼重墓所。笠間市稲田・西念寺の境内

  (親鸞)聖人越後国より常陸国に越て、笠間郡稲田郷といふ所に隠居したまふ。
 「親鸞聖人は越後国から常陸国に来られて、笠間郡稲田郷に隠れ住まわれました」(『親鸞伝絵(御伝鈔)』)。それは建保二年(一二一四)年のことであった。稲田郷の領主は稲田頼重という武士で、彼は宇都宮頼綱の弟であった(笠間市稲田・西念寺の伝え)。
 親鸞は妻の恵信尼、娘の小黒女房、息子の信蓮房を伴っていた。恵信尼は貴族の女性で小黒女房は数え七、八歳、信蓮房は四歳の幼児である。従来よく言われていたように、越後から常陸までそんな家族を歩かせ、明日の食事も分からない聖の姿で放浪するよう旅ができるわけがない。それに、他人の領地に親鸞一家が勝手に家を建てて住みつくことなどできるはずがない。鎌倉時代は自己救済の観念が非常に強かった時代である。たちまち追い出されるか、下人として他人の所有物になってしまう。
 また当時、武士団は惣領を中心にして団結していた。惣領は一族や家来に与えた領地についても、強い権限を残していた。稲田頼重の稲田郷は、笠間郡の実質的な領主である塩谷朝業の支配を受け、さらにその上に宇都宮頼綱の支配があった。その頼綱が、法然の熱心な門弟であり、親鸞の弟弟子であったからには、お互いに連絡なしであったとはとても考えられない。必ず連絡を取り合っていたであろう。現に、西念寺の伝では次のように伝えている。文中、「善信」は親鸞、「源空」は法然である。
  越後の国配流、去年勅免ありし善信御房は、源空上人上足なり。はやく其地に請じて、化益を蒙るべしと教訓の始末を語る。
 「(頼綱が頼重に)越後国に流されていて、先年許された親鸞殿は、法然上人の高弟です。
はやく稲田にお招きして、教えていただきなさいと命じました」。
 こうして親鸞は宇都宮氏に守られて越後から関東へ安全な旅をし、またその保護で布教に当たった。親鸞の関東での活動について、頼綱がはたした役割は大きかった。

神奈川と親鸞 前編14回

神奈川と親鸞 第十四回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

仲間の念仏者たち⑷ 宇都宮頼綱➁―法然の門弟―

宇都宮頼綱画像。京都市左京区・三鈷寺蔵

宇都宮頼綱画像。京都市左京区・三鈷寺蔵

 北条泰時を支えた宇都宮頼綱は、法然最晩年の有力な俗弟子であった。
 元久元年(一二〇五)、頼綱は本拠の下野国から国境を越えて常陸国笠間郡に攻め込んだ。笠間郡は温暖かつ農産物豊かな地で、宇都宮氏は十年来支配下に置くことを狙っていたのである。その侵攻が成功しつつある途中で、頼綱は突然鎌倉の北条氏の内紛に巻き込まれ、将軍に反逆しようとしているとして一族全滅の危機にさらされることになった。
 頼綱は北条氏との和解を他の親しい豪族に依頼しつつ、自分は家来数十人と共に出家し、髻を執権になったばかりの北条義時の屋敷に届け、やっと危機を乗り切ることができた。
 頼綱はひとまず表舞台から姿を消し、京都に上って法然に入門した。法名は実信房蓮生であった。熊谷直実の場合と同様、武士として人を殺さなければ生きていけない罪悪感と、来世は地獄という恐怖を救ってもらえると思ったからであろう。
 頼綱引退の元久元年は、三十三歳の親鸞が法然の主著で秘書扱いだった『選択本願念仏集』の閲覧・書写を許された年である。何百人もいた門弟の中で、閲覧を許された者は十人に満たない。その中の一人、若手の俊秀親鸞のことも、頼綱は注目していたであろう。この年、頼綱も二十八歳の青年であった。
 建暦元年(一二一二)一月、法然が八十歳で亡くなると、頼綱はその高弟の証空の指導を受けることになった。証空は、強大な権力を振るって九条兼実を引退に追い込んだ内大臣久我通親の息子(養子)で、九歳の時から法然に師事し、法然が『選択本願念仏集』を執筆する時にはそれを助けて働いた。現在では浄土宗西山派の派祖として知られている。
 後の嘉禄三年(一二二七)、比叡山の悪僧たちが法然の墓を暴き、その遺骸を賀茂川に流そうとした事件があった(嘉禄の法難)。この時、法然の遺弟たちが夜中にこっそり法然の遺骸を掘り出し、他の場所に移して難を逃れた。その時、頼綱は数百期騎の兵力でその移動を守護している(『拾遺古徳伝絵』)。その中には弟の塩谷朝業もいた。

神奈川と親鸞 前編13回

神奈川と親鸞 第十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

 仲間の念仏者たち⑷ 宇都宮頼綱➀―北条泰時を支える―

宇都宮辻子幕府あとの石碑。鎌倉市小町

宇都宮辻子幕府あとの石碑。鎌倉市小町

 前回に述べた塩谷朝業の兄の宇都宮頼綱は、執権北条泰時を支えた政治家であった。泰時は後になってこそ「心正しく」「人を孕み」、北条氏の長期政権のもとを作ったと評価された(北畠親房『神皇正統記』)。しかし元仁元年(一二二四)の父義時没の時には、薄氷を踏む思いだった。本来の跡継ぎは弟の政村であり、朝時であったからである。それを伯母の政子と、事務官僚の代表である大江広元が抑え込んで泰時後継が実現したのである。
 ところが翌年の嘉禄元年、政子と広元が相次いで亡くなった。泰時は叔父の時房をもう一人の執権(通称は、「連署」)に迎え、有力御家人や事務官僚・北条一族を集めた評定衆を設置し、合議制で危機を乗り切ろうとした。承久三年(一二二一)の乱では泰時は時房と共に京都へ攻め込んで勝利し、そのまま泰時は六波羅探題北方、時房は同南方として三年間協力して朝廷対策に当たった。泰時にとって時房はもっとも信頼できる親族であった。
 泰時は、時房を連署に迎えた年、幕府の役所を当初からの大蔵から宇都宮辻子へ移した。宇都宮辻子は若宮大路の東側に当たる小道である。ここは北関東の大豪族宇都宮頼綱が祖父の朝綱以来の屋敷地を持っていた場所であった。
 頼綱は、下野国南部・中部から常陸国笠間郡を領し、妻は北条義時の妹すなわち泰時の叔母であった。頼綱の母は京都の貴族で、彼は京都にも勢力を有していた。嘉禄二年(一二二六)、泰時はその孫で二歳の経時と、頼綱の同い年の孫娘とを婚約させている。泰時は、北条氏以外では宇都宮頼綱をもっとも頼みにして難局を乗り切ろうとしたのである。

┌北条義時―泰時―時氏―経時
└――女子        ┃
    ┣―泰綱――――女子
    宇都宮頼綱

 その頼綱は法然最晩年の熱心な門弟で、親鸞を常陸稲田に招いた人物でもあった。

神奈川と親鸞 前編12回

神奈川と親鸞 第十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

 仲間の念仏者たち⑶ 塩谷朝業➁―法然の遺弟―

源実朝坐像。甲府善光寺蔵

源実朝坐像。甲府善光寺蔵

 承久元年(一二一九)一月、将軍源実朝は鶴岡八幡宮で暗殺された。塩谷朝業は、主君であり親しい友でもあった実朝を失って悲しみ、領地の下野国塩谷郡に戻って出家した。
 朝業は元久元年(一二〇五)年に宇都宮頼綱が下野国から常陸国笠間郡に攻め込んだ時、後半の指揮官として笠間占領を完成させた。以後、朝業が笠間経営にあたった。九年後、親鸞は越後から笠間郡の稲田郷に入った。親鸞は朝業と交流があったはずである。
 出家の翌年、朝業は京都に上り、法然の門弟である善慧房証空に入門して念仏を学ぶことになった。法名は信生である。それは兄の頼綱が法然の没後、証空の門に入って指導を受けていたという由緒によるだろう。ただし朝業は法然の没後の門弟としての意識が強かった。すると、朝業は親鸞の弟弟子ということになる。また後のことであるが、朝業の三男朝貞は出家して親鸞の門弟になり、賢快と名のったという。
 和歌に優れていた朝業には、『信生法師集』という歌集がある。その前半は旅日記で、『信生法師日記』と呼ばれている。それによれば、嘉禄元年(一二二五)二月、朝業は京都を出て鎌倉に赴いた。幕府では執権義時が前年に亡くなり、長男の泰時が跡を継いでいた。朝業は北条政子の許可を得て、持仏堂で実朝の念仏供養をしている。鎌倉滞在の間に泰時の依頼を受けた気配で、次に朝業が向かったのは信州であった。そこで前年に泰時によって流されていた伊賀光宗に会っている。
 義時没後、武士の慣行によれば、跡継ぎとなるべきは正妻の嫡男政村二十歳であった。ただし前妻の嫡男朝時三十二歳も名のりを上げていた。しかし政子や事務官僚の支持を受けた、政治にも軍事にも優れた業績を上げていた泰時四十二歳が二人を抑えて執権職に就いた。その際、政村の伯父で後見役だった光宗を信州に追いやっていたのである。
 まもなく光宗は鎌倉に呼び戻され、政治に復帰した。幕府の安定を望んだ泰時の方針であった。光宗の様子を見に行った朝業は、泰時の信頼を得ていたのである。

神奈川と親鸞 前編11回

神奈川と親鸞 第十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

 仲間の念仏者たち⑶ 塩谷朝業―源実朝の和歌の師―
 

塩谷朝業画像。写真中央の僧侶姿。『拾遺古徳伝絵』(茨城県那珂市・常福寺蔵)より。

塩谷朝業画像。写真中央の僧侶姿。『拾遺古徳伝絵』(茨城県那珂市・常福寺蔵)より。

 建暦二年(一二一二)二月一日、鎌倉の将軍源実朝は次の和歌を塩谷朝業という御家人に贈った。近習の和田朝盛に持たせて、しかし「自分が贈ったとはいうな」と命じて。

  君ならで 誰にか見せむ わが宿の
   軒端ににほふ 梅のはつ花

 「あなた以外の、いったい誰に見せましょうか。私の家の軒端で匂う、今年初めて咲いた梅の花を」。朝業はすぐ実朝の贈歌と見破り、次の和歌で返した。

  うれしさも 匂も袖に 余りけり
   我為おれる 梅の初花

 「私の着物の袖にあまるほどのよい匂いとうれしさをいただきました。あなたが私のために折ってくださった、今年初めて咲いた梅の枝から」(『吾妻鏡同日条』)。
 朝業は実朝の和歌の師匠であった。この時実朝は二十一歳、朝業は十歳あまり年上、若い二人は将軍と御家人という関係を超えて親しく交際していた。
 一方、朝業は宇都宮頼綱の実弟で、宇都宮一族を代表して鎌倉に出仕していた。頼綱は下野国南部・中部から常陸国笠間郡を支配する大豪族である。また執権北条義時の妹を妻とし、母は京都の貴族出身という中央政界でも有力な存在であった。しかし元久元年(一二〇五)、その勢力を北条氏に危険視され、一族全滅の危機に追い込まれている。
 頼綱は、その危機を自分と家来数十人の出家引退という形で乗り越えた。そして頼綱は京都に上って法然に入門し、熱心な専修念仏者となった。法名は実信房蓮生であった。
 頼綱に替わって同母の弟塩谷朝業が幕府に出仕したが、宇都宮惣領としての立場は頼綱が維持していた。兄弟は終生仲たがいすることなく、方策を相談し合って宇都宮一族の発展に努力した。その方策の一つが、北条義時が盛り立てる将軍実朝に接近することであった。しかし当初の意図を超えて、実朝と朝業は親しい間柄になったのである。