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法然聖人とその門弟の教学 第4回
法然聖人とその門弟の教学
第4回 「正行と雑行」「正定業と助業」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄
法然聖人における行は、善導大師に基づいています。善導大師は、行にはさまざまあるけれども、大きく二つに分けることができるとされています。二つの行とは、正行と雑行です。これを受けて、法然聖人は「雑行を捨てて正行に帰す」ことを説かれました。
正行とは、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生することが説かれた経典に示されている行のことをいいます。つまり、阿弥陀仏に関わりのある行のことです。浄土往生が説き明かされた経典とは、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』です。この三つの経典は、法然聖人によって「浄土三部経」と名づけられました。
これらの経典を一心に読むこと(読誦)、一心に阿弥陀仏と浄土を心に思い浮かべ見ること(観察)、一心に阿弥陀仏を礼すること(礼拝)、一心に阿弥陀仏の名を称えること(称名)、一心に阿弥陀仏の徳をほめたたえ、供養すること(讃歎供養)の五種類の行を正行といいます。
正行はさらに二種類に分けることができます。正定業と助業です。五種の正行の中、第四番目の称名のみを正定業といい、ほかの読誦・観察・礼拝・讃歎供養を助業と位置づけています。正定業とは、正しく衆生(生きとし生けるものすべて)の往生が決定する行業、業因という意味です。称名が正定業である根拠は、阿弥陀仏の本願(第十八願)に往生の行として誓われているのは、ただ称名念仏一行であるからです。また、助業とは、称名をしやすくするよう助けとなる行であり、称名によって伴ってくる行であるという意味です。
一方、雑行とは、五種の正行以外のすべての行をいいます。雑行は数え切れないほどのさまざまな行がありますが、いずれも阿弥陀仏とは関わりのない行です。善導大師は正行以外のあらゆる善を雑行とされましたが、さらに法然聖人はこの雑行が何を指しているのかを具体的に述べられました。読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養の正行に対して、読誦雑行・観察雑行・礼拝雑行・称名雑行・讃歎供養雑行を挙げています。つまり、浄土三部経以外の経典を往生の行として読むことを雑行とされ、阿弥陀仏以外の仏を礼拝したり、称名したりすることを雑行とされたのです。このように法然聖人は捨てるべき雑行を明らかにすることによって、帰すべき阿弥陀仏の浄土に往生する行とは何かを明確化されたのです。
浄土真宗で『般若心経』を読まないのは、『般若心経』に阿弥陀仏の本願の救いが説かれていないからです。法然聖人を受け継いだ親鸞聖人の教えであると理解することができます。
法然聖人とその門弟の教学 第3回
法然聖人とその門弟の教学
第3回 「順彼仏願故」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄
念仏といえば、「南無阿弥陀仏」と称える称名念仏を連想しますが、文字通りに解釈すると、仏のすがた(相好)やはたらき(功徳)を心に思い描くという「心念」であり、それがもともとの意味であったと考えられます。
仏教の辞典を開いてみても、「念仏」の意味は、「①仏を憶念すること。仏の功徳や相を心におもい浮かべること。観念の念仏。②六念(仏・法・僧・戒・施・天の六つを、それぞれ心静かに念ずること)の一つ」とあって、最後に「③「南無阿弥陀仏」と六字の名号を口に称えること。称名念仏」と説明されています(中村元『佛教大辞典』、東京書籍)。
ところが、法然聖人の念仏とは、観念の念仏ではなく、ただ口に阿弥陀仏の名号を称えるという「称名念仏」の一行です。「ただ念仏」に帰結する過程を考えてみますと、まず法然聖人が多大の関心を寄せたのが、比叡山で浄土教を説かれた源信和尚(恵心僧都)の『往生要集』でした。
『往生要集』の念仏は、世親(天親)菩薩の五念門であり、浄土に往生したいという心を起こして、心を浄土に専注し、阿弥陀仏のすがたを思い浮かべる行が中心です。そのため『往生要集』には、阿弥陀仏のすがたを観念する能力のない者に対して、はじめて称名念仏が説かれます。法然聖人が重視されたのは、この心を集中することができない凡夫にとって実践可能な行でした。そこで『往生要集』に引用されていた、中国唐の善導大師の文に注目されていかれました。
法然聖人は、一切経(仏教のすべての経典)をご覧になるたびに、善導大師の文を注意して読まれること三度、ついに心が乱れる凡夫が念仏を称えれば、浄土に必ず往生できるという確信を得たのです。その善導大師の文とは、
一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、
これを正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故なり。(『観経疏』「散善義」)
でありました。この文は、「心を一つにしてひたすら阿弥陀仏の名号を称え、歩いているときも、とどまっているときも、座っているときも、臥しているときも、時間の長短に関わらず、常に忘れずに続けてやめないことを、正しく衆生の往生が決定する行であるといいます。なぜならば、それは阿弥陀仏の本願にしたがっているからです」という意味です。
法然聖人は、この文を「ふかく魂にそみ、心にとどめ」られていますが、それは称名念仏が、阿弥陀仏のすべてを救おうという願いにかなった行にほかならなかったからです。
神奈川と親鸞 前編71回
神奈川と親鸞 第七十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
厚木市岡田の長徳寺
長徳寺は、寺伝によると平安時代最末期の寿永2年(1183)、浄光という僧侶が真言宗の寺院として開いたといいます。親鸞がちょうど10歳になった年です。比叡山において9歳で出家してからまだ2年目だったということになります。
それから49年後の寛喜元年(1229)、57歳の親鸞は国府津の真樂寺に逗留、念仏の教えを伝えていました。浄光はその真樂寺で親鸞に会って門弟にしてもらい、浄光という法名を与えられたと長徳寺の寺伝では伝えています。
その後、戦国時代末期までの長徳寺の展開は明らかではありません。戦国時代末期、当地岡田村の領主で津久井城の城主であった内藤左近将監の尽力により、小田原の北条氏直から朱印地10石を与えられたといいます。その伝えを裏づけるように、長徳寺には戦国時代制作を思わせる立派な阿弥陀如来立像と、聖徳太子立像がとが伝えられています。
江戸時代に入って元禄16年(1703)、長徳寺は火災に遭って本堂等が焼けてしまいました。その後、聖徳元年(1711)に建立されたのが現在の本堂です。
神奈川県の浄土真宗寺院には、重量感があり、同時に威厳のある聖徳太子立像を安置している寺院が多くあります。関東の他の都県には見られない特色です。それは鎌倉時代から鎌倉に仏所(仏像を制作する組織)が成立し、連綿と引き継がれたからでしょう。
ところで「聖徳太子」といえば、日本で教育を受けた者なら誰でも知っている存在です。しかし文部科学省の指導要領の改訂で、まもなく、社会科ないし日本史の教科書からは「聖徳太子」の名が消えることになりました。浄土真宗の世界では厄介なことになりそうです。これも時代に流れでしょうか。(3月20日付新聞に「消えることは撤回」とありました)
さて、長徳寺の山門をくぐると美しい日本庭園が展開します。池には緋鯉・真鯉が泳ぎ、築山を中心にした周囲には椿・梅・牡丹・ツツジなどが形よく植えられ、それぞれの時期に花開き、秋には紅葉も楽しめます。静かな雰囲気の寺院です。
法然聖人とその門弟の教学 第2回
法然聖人とその門弟の教学
第2回 「三学非器」「いづれの行もおよびがたき身」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄
仏教の修行方法を簡潔にまとめられたものに三学があります。三学とは、戒(戒めを守る)・定(精神統一をする)・慧(智慧を身につける)をいいます。戒を守ることによって、定ができるようになり、定によって真実を見きわめる智慧を身につけていく修行のことです。
ところが、法然聖人はこのような修行を積み重ねていっても仏に成ることができない現実を悲しまれています。
かなしきかな、かなしきかな。いかがせん、いかがせん。ここに我等ごときは
すでに戒定慧の三学の器にあらず。(『法然上人行状絵図』)
この文には、法然聖人が比叡山で修行されていた中で悩み続けられた思いが告白されています。法然聖人は、自身のみならず「我等」が「すでに」三学という、仏教の基本的な修行を究める器量を持ちあわせていないことを悲歎されています。「我等」という言葉には、阿弥陀仏からのまなざしに照らされた凡夫のすがたが、そして「すでに」という言葉からは、今がいかなる時代であるのかを自覚されています。法然聖人は、このような戒・定・慧がない三学非器の者にふさわしい教えとして、念仏を勧められたのです。
この法然聖人の教えを受け継いだ親鸞聖人もまた同じような自覚をされています。
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(『歎異抄』)
親鸞聖人は、「どのような修行も満足には修めることのできないものであるから、どうあっても地獄は私の定められた住み家なのです」と語っています。この文は、「ただ念仏」をお勧めくださった法然聖人の説法を全身に受け止め、絶対的な信頼から発せられた言葉です。なぜならば、親鸞聖人にとって阿弥陀仏の本願以外に自身が救われる道を見出せなかったからです。「いづれの行もおよびがたき身」であると自覚されてこそ、「弥陀の誓願不思議」が知らされてくるのです。
神奈川と親鸞 前編70回
神奈川と親鸞 第七十回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
56歳の親鸞─鎌倉と国府津と─
安貞2年(1228)、56歳の親鸞は国府津で念仏の教えを説き始めたという。これは国府津の真楽寺その他の寺院や、江戸時代の各種巡拝(順拝)記等の伝えるところである。
他方、前の年は鎌倉幕府の尼将軍北条政子3回忌であった。元仁元年(1224)、彼女の強力な後押しで第3代執権に就任することができた北条泰時は、早くも翌年に亡くなった政子の葬儀・1周忌・3回忌法要を盛んに行なうことで自らの権威を固めようとしていた。
3回忌の次は7回忌であるけれども、当時は重要視されていなかった。次の13回忌までの10年間、泰時は政子供養のための一切経書写と三井寺(園城寺)への寄進を企画した。覚如の『口伝抄』によれば、そのための準備の一切経校合という困難な仕事を親鸞に依頼、親鸞はそれを引き受けたという。この話の妥当性は、拙稿「親鸞聖人と神奈川県⑵」(『組報かまくら』第33号、平成29年1月)で述べた。
政子3回忌法要は安貞元年(1227)である。『大谷遺跡録』には「高祖五十六歳、稲田郷にましましながら、安貞二年のころより、よりより此所にかよひ給ふ」とある。永禄11年(1568)の『反故裏書』には「又鎌倉にも居し給と也」とある。仏光寺本『親鸞伝絵』には親鸞が一切経校合を進める詞書と絵が載せられている。
親鸞56歳の時、5人の子のうち、末の覚信尼はまだ5歳ではあるが、長子の小黒女房は21、2歳、次の信蓮房は18歳である。親鸞が長期間稲田草庵を留守にしても恵信尼は問題なく家庭を運営することができたであろう。
親鸞は一切経校合を手がかりに、鎌倉そして国府津を二つの軸として相模国での布教を進めたものであろう。ただ問題は一方の軸がなぜ国府津であったかということである。国府津が交通の要地であったことは明らかであるが、その領主は、いまだ判明していない(『小田原市史 通史編 原始 古代 中世』小田原市、平成10年)。北条泰時のお声がかりがあったことは考えられるが、声をかけた武士が誰か、今後の研究課題である。