神奈川と親鸞 前編70回

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神奈川と親鸞 第七十回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

56歳の親鸞─鎌倉と国府津と─

真楽寺案内石標。東海道沿い(山側)にある


 安貞2年(1228)、56歳の親鸞は国府津で念仏の教えを説き始めたという。これは国府津の真楽寺その他の寺院や、江戸時代の各種巡拝(順拝)記等の伝えるところである。
 他方、前の年は鎌倉幕府の尼将軍北条政子3回忌であった。元仁元年(1224)、彼女の強力な後押しで第3代執権に就任することができた北条泰時は、早くも翌年に亡くなった政子の葬儀・1周忌・3回忌法要を盛んに行なうことで自らの権威を固めようとしていた。
 3回忌の次は7回忌であるけれども、当時は重要視されていなかった。次の13回忌までの10年間、泰時は政子供養のための一切経書写と三井寺(園城寺)への寄進を企画した。覚如の『口伝抄』によれば、そのための準備の一切経校合という困難な仕事を親鸞に依頼、親鸞はそれを引き受けたという。この話の妥当性は、拙稿「親鸞聖人と神奈川県⑵」(『組報かまくら』第33号、平成29年1月)で述べた。
 政子3回忌法要は安貞元年(1227)である。『大谷遺跡録』には「高祖五十六歳、稲田郷にましましながら、安貞二年のころより、よりより此所にかよひ給ふ」とある。永禄11年(1568)の『反故裏書』には「又鎌倉にも居し給と也」とある。仏光寺本『親鸞伝絵』には親鸞が一切経校合を進める詞書と絵が載せられている。
 親鸞56歳の時、5人の子のうち、末の覚信尼はまだ5歳ではあるが、長子の小黒女房は21、2歳、次の信蓮房は18歳である。親鸞が長期間稲田草庵を留守にしても恵信尼は問題なく家庭を運営することができたであろう。
 親鸞は一切経校合を手がかりに、鎌倉そして国府津を二つの軸として相模国での布教を進めたものであろう。ただ問題は一方の軸がなぜ国府津であったかということである。国府津が交通の要地であったことは明らかであるが、その領主は、いまだ判明していない(『小田原市史 通史編 原始 古代 中世』小田原市、平成10年)。北条泰時のお声がかりがあったことは考えられるが、声をかけた武士が誰か、今後の研究課題である。

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