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神奈川と親鸞 前編55回
神奈川と親鸞 第五十五回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
信楽と厚木市飯山の弘徳寺⑷─再入門した信楽─
飯山の弘徳寺の開基信楽は、京都で親鸞に叱られて門下を離れ、故郷に帰った。その後また京都に上って親鸞に許された、と弘徳寺の寺伝は伝えている。その時に親鸞から八十八歳の寿像(じゅぞう)を与えられた。これが現在も弘徳寺に安置されている「親鸞聖人坐像」であるという。
寿像とは、その人の生前に制作された彫刻または絵画の肖像のことである。このような肖像は、その人が亡くなってから制作するのが普通だった。生前に制作すると、その人の生きる力を吸い取ってしまうからよくない、と思われていたからである。特例で生前に制作したのを「寿像」と称している。
さらに弘徳寺の寺伝によると、親鸞没後、如信から親鸞の遺骨をもらって「親鸞聖人坐像」の胎内に納めて尊崇したという。
同じく信楽を開基とする茨城県結城郡八千代町新地の弘徳寺の寺伝では、許されたのは親鸞の曾孫覚如からであったとする。江戸時代の『遺徳法輪集』弘徳寺の項によると、覚如が諸国を巡った時、この寺の前を通り過ぎると勤行の様子が浄土真宗らしかった。そこで覚如はその寺に入って事情を聞いてみた。覚如が関東に来たのは正応3年(1290)のこと、親鸞没後30年近く経っている。かなり高齢になっていたが信楽はまだ存命で、
不思議の幸いとよろこび、信楽房突鼻にあづかりしむねを申しまひらせ、
改悔の旨をひらき廻心の涙を流し、願くば免を蒙りたきと申されければ、
「こんなこともあるのかと喜び、親鸞聖人に突鼻にあずかった状況をお話しし、「あの時はすみませんでした。今は私が悪かったと反省しています」と涙を流し、「できればお許しをいただき、また聖人の御門下に戻りたいです」と願いました。
覚如はこれを聞いて、反省して心を入れ替えたのなら特に問題はないだろうと門下に戻ることを許したというのである。
神奈川と親鸞 前編54回
神奈川と親鸞 第五十四回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
信楽と厚木市飯山の弘徳寺⑶─信楽が与えられた本尊と聖教─
信楽が師匠の親鸞に叱られ、門下を離れて故郷に帰ることになった時、意見をいう者がいた。親鸞に親しく仕え、日常のお世話をしていた蓮位(れんに)という人物である。常陸国小島付近の出身である。
蓮位は、「信楽房がご門下をやめて帰国するというのなら、お師匠様が信楽房に授与してあったご本尊の名号や教典類を返上させるべきではありませんか。特に書名の下に「釈親鸞」と名を書かれた経典類は多いですし。信楽房がご門下を離れるなら、きっとそのご本尊や経典を大切にすることはなくなってしまうでしょうから」と述べたのである。このように覚如の『口伝抄』には記されている。
すると親鸞は、「いや、そのように取り返すことは決して行なってはいけません」と答えたといいます。その理由は、
たとひかの聖教を山野にすつといふとも、そのところの有情群類、かの聖教にすくは
れてことごとくその益をうくべし。しからば衆生利益の本懐、そのときに満足すべし。
「もし信楽がその本尊や経典類を山や野に捨てたとしても、そこに住んでいる者たちがその経典類を拾うこともあるでしょう。そうすればその人たちはその本尊や経典によって念仏の教えに導かれ、皆、極楽往生という恩恵にあずかれるでしょう。その結果、すべての人々を救おうという阿弥陀仏の願いは成就することになります」ということだったのである。
あわせて親鸞は、
凡夫の執するところの財宝のごとくに、とりかへすといふ義あるべからざるなり。
よくよくこころうべし。
「私たちがややもすれば執着する財宝と同じように本尊・経典を扱い、取り返そうなどと考えてはいけません」と強く戒めている。
神奈川と親鸞 前編53回
神奈川と親鸞 第五十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
信楽と厚木市飯山の弘徳寺⑵─「突鼻(とっぴ)にあずかった」信楽─
飯山の弘徳寺の寺伝によれば、開基の信楽は稲田草庵に親鸞を訪ねてその門に入ったという。後に親鸞が飯山に来た時、聖徳太子の由緒を喜んで草庵を結び、付近で布教し、やがて信楽にその草庵を託したとする。
親鸞の帰京後、信楽も京都に上ってその指導を受けていた。しかしある時、信楽は親鸞の機嫌を損ねてしまった。そのことを覚如の『口伝抄』第六項に次のように書いてある。
常陸国の新堤(にいづつみ)の信楽坊、聖人【親鸞】の御前にて、法文の義理ゆゑに
仰せをもちゐまうさざるによりて、突鼻にあづかりて本国に下向、
「常陸国新堤の信楽房は、親鸞聖人の前で、経典の解釈で聖人とは異なる解釈を主張したので、激しく叱られてしまった。そして門下としてはいられなくなり、故郷に帰ることになった」。
信楽はおそらく多くの経典を読み、学び、かなりの自信を持っていたのであろう。そしてつい親鸞の前で、あるいは他の門弟をまじえた勉強会で親鸞とは異なる意見を主張したということであろう。当然、逆らおうなどと思っていたのではない。親鸞が折れてくれて、「信楽、さすがだな」と褒めてくれるだろうと期待したと思われる。
ところが甘い期待に反して、信楽は厳しく叱られた。「突鼻(とっぴ)」は「突飛(とっぴ。あまりにも思いがけないありさま。奇抜なこと)」とは異なり、「主人から厳しくとがめられること」という意味である。いきなり鼻を突かれてびっくり、主人や師匠はとても不機嫌な顔をしている、という様子である。
秀才だったらしい信楽は大恥をかき、門下にいられなくなった。親鸞も引き止めなかった様子である。
なお茨城県結城郡八千代町新地(しんち)にも信楽を開基とする弘徳寺がある。「新地」は昔、「新堤」という地名だった。飯山の弘徳寺と同系統の寺院ということである。
神奈川と親鸞 前編52回
神奈川と親鸞 第五十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
信楽と厚木市飯山の弘徳寺⑴─豪族の相馬氏─
厚木市飯山の弘徳寺は、開基を親鸞の門弟信楽(しんぎょう)とする二十四輩第五の寺院である。信楽は覚如の『口伝抄』に、京都で親鸞に逆らったと書かれている人物である。弘徳寺の寺伝によれば、信楽は下総国の大豪族相馬氏の系譜を引くという。
まず『新編相模国風土記稿』によると、飯山には古い地蔵堂があったとする。それは聖徳太子の発願によって豪族秦河勝(はたの・かわかつ)が地蔵菩薩像を安置するために建立した建物だったとされている。聖徳太子が観音菩薩の生まれ変わりとされることはよくあるが、地蔵菩薩との関わりで語られることは珍しい。
さて弘徳寺の伝では、信楽は千葉常胤の次男である相馬次郎師常の息子、三郎義清であったという。千葉氏は代々千葉介(ちばのすけ)を称した下総国の大豪族であった。常胤は数人の息子たちとともに源頼朝の挙兵に加わり、鎌倉幕府創立に大きな功績をあげた。
また相馬氏は、平安時代に下総国北部の相馬郡(茨城県)を中心に大勢力を張った平将門の後として知られていた。将門は相馬小次郎と称している。師常は将門の子孫ではないが、子孫の信田師国の養子となって領地を受け継ぎ、新たな相馬氏を興したのである。
師常は、建仁元年(一二〇一)、に父が亡くなったために出家して法然に入門した。六十三歳であった。奇しくも二十九歳の親鸞が法然に入門したのと同じ年である。そこで親鸞と師常とは年齢がかなり違っていても兄弟弟子ということになる。
言及元年(一二〇五)十一月十五日、師常は鎌倉の屋敷で念仏を称えながら亡くなった。『吾妻鏡』同日条に次のようにある。
相馬次郎師常卒す。(中略)端座合掌せしめて、更に動揺せず。
決定往生、敢えてその疑い無し。
「相馬師常が亡くなった。仏前にきっちり座らせてもらい、合掌して念仏しまったく動かなかった。必ず極楽に往生したであろうことは疑いない」。
神奈川と親鸞 前編51回
神奈川と親鸞 第五十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
嘉禄の法難の北条時氏、その後
比叡山の僧たちが専修念仏の隆盛を嫌い、京都東山の法然の墓所を襲ったのは嘉禄3年(1227)6月12日のことであった。六波羅探題の北条時氏はこれを阻止、宇都宮頼綱に連絡して法然の遺骸を無事に二尊院に送らせた。時氏は弱冠25歳、頼綱は息子経時4歳の婚約者の祖父という近い関係であった。頼綱は親鸞を稲田に招いた武将である。
6月19日、鎌倉では北条政子3回忌のために建立した阿弥陀堂の落慶供養を翌日に控え、執権北条泰時の次男時実が家来に斬り殺されてしまった。まだ16歳であった。知らせを受けた時氏は急ぎ鎌倉に帰った。政子は法然に念仏の教えを受けたことがある。落慶供養は翌7月11日に行なわれ、時氏も出席したことが『吾妻鏡』に記されている。
7月25日、政子供養のために建立されたもう一つの堂の落慶法要が行なわれた。導師として京都から招かれたのが聖覚であった。彼が6年前に書いた『唯信抄』は親鸞が非常に大切にし、自ら書写して多くの門弟たちに与えている。
京都に戻った時氏は六波羅探題の仕事に励んだ。彼は父泰時に非常に期待されていた。しかし寛喜2年(1230)4月、たまたま鎌倉に帰る途中で病気になり、6月18日に亡くなった。その日の『吾妻鏡』の記事には、
年二十八。(中略)嘉禄三年六月十八日次男卒去、四ケ年を隔てて今日此の事有り。
愁傷の至り、喩へ取る物なし。
「4年前の次男時実と同じ日に亡くなった。まことに気の毒なことは喩(たと)えようがない」とある。時氏は鎌倉の大慈寺に葬られた。
この時点で泰時は男子をすべて失った。少なくとも孫の経時が成人するまで政権を安定的に保たなければならない。その有力な方策としての政子供養の一切経校合・書写には、さらに力が込められたであろう。校合は親鸞が任されていた。ちなみに経時も早死にし、その男子二人は経時のあとを継いだ弟時頼のために出家させられている。