神奈川と親鸞 前編24回

神奈川と親鸞 第二十四回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴  鎌倉での一切経校合⑷ 親鸞の一切経校合―『口伝鈔』から➁―
一切経校合の場面。『善信聖人親鸞伝絵』京都市・仏光寺蔵

一切経校合の場面。『善信聖人親鸞伝絵』京都市・仏光寺蔵

『口伝抄』の一切経校合に関する記事は、次の文章で始まっている。   西明寺の禅門の祖父武蔵守泰時世をとりて政徳をもはらにせしころ、一切経を校合せられき。   これを校合のために智者学生たらん僧を崛請あるべしとて、  「北条時頼(「西明寺の禅門」)の祖父武蔵守北条泰時が執権としてよい政治を行なっていた時、一切経校合の企画を立てられました。そのために、経典についてよく知っている僧を招こうと」武藤左衛門入道と屋戸やの入道(宿屋入道)を担当者として探させたところ、   ことの縁ありて聖人をたづねいだしたてまつりき。  「ある縁があって親鸞聖人が適当な人物として見つかりました」。  泰時が一切経校合を企てた理由は、本連載第二十二回で述べた。校合してくれる僧は、優れた知識・識見があり、また信頼できる人の推薦がなくてはなるまい。泰時の信頼できる人とは、叔父の北条時房、評定衆の二階堂行盛そして宇都宮頼綱あたりであろう(本連載の第十三回・第十六回参照)。そして頼綱から親鸞が推薦されたと私は推定している。  親鸞が一切経校合を始めたのは、五十六歳の安貞二年(一二二八)からではないだろうか。その理由は第一に、北条政子の三回忌法要が前年に行なわれ、次の法要として一切経校合・書写が企画されたであろうこと(本連載第二十二回参照)である。第二の理由は、四十二歳で関東へ入ってから相模国にはまったく姿を見せなかった親鸞が、特に五十六歳ころから突然のように相模国で活動を始めた気配だからである。その状況については、いずれ述べる。  覚如自筆の『親鸞伝絵』には一切経校合の記事は出てこない。室町時代前期または江戸時代初期に作成された『親鸞伝絵』の一本(『善信聖人親鸞伝絵』)には一切経校合の段が加えられ、泰時が一切経校合を企て、親鸞が選ばれ、「五千余巻」の経典を校合し泰時の願いを遂げさせたとある。

神奈川と親鸞 前編23回

神奈川と親鸞 第二十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴  鎌倉での一切経校合⑶ 親鸞の一切経校合―『口伝抄』から➀―
如信坐像。茨城県大洗町・願入寺蔵

如信坐像。茨城県大洗町・願入寺蔵

 覚如の『口伝抄』に親鸞の一切経校合の話が出てくる。この『口伝抄』は覚如の考えを述べたものには違いないけれども、実は高弟の乗専が覚如の講義を筆記したものである。覚如は、元弘元年(一三三一)十一月の報恩講で二十一日から二十八日までの七日間、浄土真宗の教義や歴史について講義をした。乗乗はそれを筆記し、翌年二月に清書し終わった。当然、覚如への問い合わせの上であろう。本書の内容は、『口伝抄』の最初に、   本願寺の鸞聖人、如信上人に対しましましてをりをりの御物語の条々。  「本願寺親鸞聖人が如信上人に向って機会あるごとに語られた多くの話」を、覚如が如信から伝えられたもの、というのである。如信は親鸞の孫で、親鸞を慕い、親鸞から多くを学ぶ意欲の強かった人物である。覚如は親鸞を本願寺第一世、如信を第二世に据え、自らを第三世としている。『最須敬重絵詞』に、   一すぢに聖人の教示を信仰する外に他事なし。これによりて幼年の昔より長大の後にいたるまで、   禅牀のあたりをはなれず、学窓の中にちかづき給ければ、   自の望にて開示にあづかりたまふ事も時をえらばず、他のために説化し給ときも、   その座にもれ給ことなかりければ、聞法の功もおほくつもり、能持の徳も人にこえ給けり。  「親鸞聖人の教えだけを信じ大切にする以外のことはありませんでした。このことから、幼い時から成人した後も、聖人が座る腰掛付近を離れず、聖人が勉強している部屋に入っていました。それで折に触れては聖人に質問して教えてもらい、また聖人が他の人に教えてている時も、必ずその席にいました。そこで聖人の心からの教えを多く受け取り、その教えはすべて記憶することは普通の人を超えていました」とある。  『最須敬重絵詞』は覚如の伝記で、著者は『口伝抄』の筆記者と同じく乗専である。乗専は、如信を尊敬する覚如の気持、また第二世に据えた政治的意図も十分に理解していたであろう。そのことも念頭に置いて『口伝抄』の一切経校合の記事を見ていきたい。

神奈川と親鸞 前編22回

神奈川と親鸞 第二十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴  鎌倉での一切経校合⑵ 北条泰時の一切経校合・書写事業
鶴岡八幡宮の舞殿。鶴岡八幡宮は、かつて鶴岡八幡宮寺と呼ばれた

鶴岡八幡宮の舞殿。鶴岡八幡宮は、かつて鶴岡八幡宮寺と呼ばれた

 元仁元年(一二二四)、執権に就任した北条泰時の政治的立場は弱かった。翌年に泰時を強力に推していた叔母の政子が亡くなると、状況はさらに悪化した。泰時は、この危機を叔父時房を連署に据え、評定衆を設置して有力御家人を幕政に結集させ、幕府を宇都宮辻子に移すなどして乗り切る態勢を作った(本連載第十三回)。  また泰時は政子の法要を盛大に催し続けた。政子は幕府を創設した源頼朝の妻であって、「頼朝後家」の権威は大きかった。加えて、承久三年(一二二一)の承久の乱では卓越した指導力で幕府軍を勝利に導いた。御家人にとっては無条件に崇敬の対象であった。その政子の法要であってみれば、反泰時の北条氏でも御家人でも、参加せざるを得ない。そしてその主催者は泰時である。法要ごとに泰時の指導力は増そうというものである。  政子の法要は嘉禄元年(一二二五)政子没直後の大法要、翌年の一周忌法要、翌々年の三回忌法要と連年続いた。その後毎年の年忌法要は行なうにしても、次の大きな法要は、寛喜三年(一二三一)を待たねばならない。そこで泰時が注目したのが一切経の奉納であったと推定する。一切経の法要は、前回に述べたように、故人の追善供養であり、また国家の安泰を願うものであった。まさに政子追慕にはぴったりの事業である。  一切経は宋からの輸入が不可能ではない(宋版一切経)。しかし泰時は校合・書写・奉納という道を選んだ。その方が世の中に政子の恩徳を思い出させ続けられるからである。  すでに奈良時代から一切経供会という法要があった。すべての経典を前面に出しての法要である。鎌倉においても、『吾妻鏡』によれば建久五年(一一九二)、元久三年(一二〇六)、承元二年(一二〇八)、承元五年(一二一一)、建暦二年(一二一二)、建保四年(一二一六)、建保五年(一二一七)と鶴岡八幡宮寺で行なわれたが、以後途絶えた。それが寛喜元年(一二二九)七月十一日、突然のように鎌倉・勝長寿院で政子のための一切経会が行なわれている。以後のことについてはいずれ述べる(予定では本連載の第三十回にて)。

神奈川と親鸞 前編21回

神奈川と親鸞 第二十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴  鎌倉での一切経校合⑴ 一切経とその校合とは
北条泰時の墓。鎌倉市大船・常楽寺

北条泰時の墓。鎌倉市大船・常楽寺

 覚如の『口伝抄』に、親鸞が執権北条泰時の依頼で一切経の経合を行なったとある。第二次大戦後の長い間、これは覚如の作り話だろうとされてきた。理由は、親鸞は庶民の味方、庶民を圧迫する権力者の仕事を手伝うはずがない、ということであった。しかし親鸞が信奉した阿弥陀仏は庶民だから救う、権力者だから救わないなどと説いてはいない。すべての人々を救う存在のはずである。当然、親鸞もすべての人々に救いを説いたであろう。  近年では親鸞の一切経校合は事実だったのではないか、という見方が広まりつつある。この連載では、すなおに『口伝抄』の記事とそれに関わる周囲の状況を検討していきたい。  一切経というのは何であろうか。一切経という名称の経典があるのではなく、経典一切、すべての経典という意味である。大蔵経と同じである。大蔵経も経典名ではない。  一切経には、釈迦の教えを記した「経」と、修行者の集団(サンガ)を維持するための罰則の「律」、それらの解説書の「論」、そして「経」「律」「論」の注釈書も含まれている。一切経の目録では、中国の唐の貞元十六年(西暦八〇〇年)に完成した『貞元新定釈教目録』がもっとも尊重されてきた。そこには五千巻近くが収められている。朝鮮の高麗で出版された『高麗八万大蔵経』(高麗大蔵経)も日本に影響を与えている。  一切経作成のためには、多数の経典類を書写する必要があるし、その前に同じ経典を多く集めて誤字・脱字等を正さねばならない。経典類は書写を繰り返しているので、誤持・脱字等が生じがちだったからである。これを正す作業が校合である。そのためには広い知識と優れた識見が必要である。その上での一切経書写と奉納は、大事業であるがゆえに仏の大きな恩恵が期待された。その恩恵とは国家防衛・国家安定であった。  日本においても一切経書写や奉納は奈良時代から行なわれている。その際には、国家安定を意識しつつも、身近な人の追善供養が主な目的となっていた。  北条泰時はその一切経奉納事業を企て、親鸞が校合を担当したということである。

神奈川と親鸞 前編20回

神奈川と親鸞 第20回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴  仲間の念仏者たち⑺ 鎌倉幕府と念仏者―式目追加から―
鎌倉時代の念仏者の代表的僧侶である一遍(写真中央。右向き)。『一遍聖絵』

鎌倉時代の念仏者の代表的僧侶である一遍(写真中央。右向き)。『一遍聖絵』

 鎌倉時代に関する年表を見ていくと、朝廷や幕府が「念仏禁止令」「専修念仏禁止令」を出しているとする表現に出会う。いかにも朝廷や幕府が念仏を危険視し、嫌っているような表現である。  しかし実際のところ、貴族や武士たちは念仏を嫌ってはいない。それどころか、ほとんどの貴族や武士は次の世での極楽往生を強く願っていた。それは貴族の日記やいろいろな文学作品を見れば明らかである。関白九条兼実が法然に帰依して極楽を願ったのは有名であるし、その弟で法然を嫌っていた天台座主(天台宗と延暦寺のトップ)の慈円も、極楽浄土を願っていた。  ちなみに薬師如来や社会如来、大日如来等、無数に存在する如来(仏)はすべてそれぞれ独自の浄土を持ち、それぞれの名称をもっていた。「極楽」浄土というのは阿弥陀如来(仏)だけの浄土である。  鎌倉幕府に集う武士とて来世は極楽往生を願っていた。ではなぜ「念仏禁止令」といった表現になってしまっているのか。まず鎌倉幕府では念仏に関してどのような法律を出しているのか見てみよう。幕府の基本法典である貞永元年(1232)に発布された『御成敗式目(貞永式目)』には「念仏」という文言はない。そしてその後、折にふれて出された法律(追加法)の中にはそれが見られる。三年後の文暦2年(1235)7月14日に発せられた追加法に次のようにある。   一、念仏者の事    道心堅固の輩に於いては異儀に及ばず。しかしながら、魚魚を喰らひ、女人を招き寄せ、    或ひは党類を結び、酒宴を恣に好むの由、遍へに聞へ有り。  糾弾されるべきは僧侶にあるまじき行ないをしている念仏者のことで、念仏そのものを問題視しているのではない。「道心堅固の輩に於いては異儀に及ばず(しっかりした気持で念仏修行している者は、まったく問題はありません)」と幕府は宣言している。

神奈川と親鸞 前編19回

神奈川と親鸞 第19回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴   仲間の念仏者たち⑹ 隆寛➁―相模飯山にて没―
嘉禄の法難で専修念仏者たちを守る宇都宮頼綱(中央馬上)と塩谷朝業(その右。いずれも法体)

嘉禄の法難で専修念仏者たちを守る宇都宮頼綱(中央馬上)と塩谷朝業(その右。いずれも法体)

 嘉禄元年(1225)、延暦寺の学僧である定照が『弾選択』という文章を作り、京都で明らかにしました。法然の『選択本願念仏集』を非難したのです。翌年、隆寛は『顕選択』を書いて『弾選択』に答えました。この中で隆寛は手ひどく定照を罵り、   汝の僻破の中らざる事は、暗天の飛礫の如し。 「貴公の下手な非難は的外れで当たっていない。まるで暗闇に飛ばすつぶてのようなものだ」と嘲った。隆寛は法然門下の理論的指導者として知られており、『弥陀本願義』『別辞念仏私記』『一念多念分別事』『自力他力事』等の著書もある。  しかし『弾選択』への対応が大きな原因の一つになって、嘉禄3年(1227)に専修念仏者たちは弾圧され(嘉禄の法難)、隆寛も奥州へ流されることになった。流罪に遭ったものは、他に空阿(薩摩国)と成覚(壱岐国)がいた。  隆寛を京都から奥州へ護送する役(領送使。通称は追立て使)となったのが毛利季光という武士であった。彼は鎌倉幕府の政所の別当(長官)大江広元の息子である。広元は事務官僚として幕府に仕えた多くの貴族たちの統領的立場にあった。季光はその四男で建仁2年(1202)の生まれ、源実朝に仕えていたが、その暗殺後出家して西阿と名のっていた。彼は毛利荘(厚木市付近)を領地としていて、後に評定衆の一員となり、またその娘は執権北条時頼の正室となるなど幕府内の有力者であった。  季光は護送中にすっかり隆寛に帰依するに至った。そして自分の屋敷が毛利荘の飯山にあったので、高齢の隆寛を自宅に留まらせ、代わりに隆寛の門弟実成が奥州に向かった。  しかし、老齢のためか流罪の旅の疲れからか、引き込んだ風邪がもとで年末に亡くなった。この間、親鸞が隆寛を訪ねた可能性があろうと私は考えている。終焉の地は厚木市飯山の光福寺であったとされ、同寺境内に隆寛の墓所がある。また光福寺の伝えでは、隆寛の代わりに奥州へ向かった実成は隆寛の実子であったという。

神奈川と親鸞 前編18回

神奈川と親鸞 第18回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴   仲間の念仏者たち⑹ 隆寛➀―法然の門弟―
隆寛坐像。厚木市・光福寺蔵

隆寛坐像。厚木市・光福寺蔵

 親鸞が敬意を表していた兄弟子に、前回で取り上げた聖覚の他に隆寛がいる。隆寛の父は少納言藤原資隆で、隆寛はもともと天台僧である。幼いときに比叡山に登って出家した。親鸞より25歳の年上であり、元久2年(1205)には権律師に任ぜられている。法然の教えも受けていて、前年の元久元年には『選択本願念仏集』の書写を許されている。  法然の門弟の間では、その生前も没後も、一念義と多念義の争いが続いていた。一念義というのは、極楽浄土への往生は信心ひとつで決定する、あるいは一声の念仏で決定するとする考えである。多念義とは、一生の間数多くの念仏を称え続け、臨終に極楽往生が決定するという考えである。隆寛は、はじめ1日に三万五千遍の念仏を称え、遂には八万四千遍を日課とするようになっている。多念義である。彼は京都・長楽寺に本拠を置いたので、その系統は長楽寺流と呼ばれている。  しかし隆寛は、一念義の人たちと多念義の人たちとが論争を繰り返すことを好んではいなかった。彼は『一念多念分別事』を著わし、どちらかに執着して言い争ってはならないと誡めている。  親鸞は『一念多念分別事』をもとにして『一念多念文意』を著わし、隆寛同様に一方に執着するのはよくないと説き、最後を次の文で結んでいる。   浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり。またく一念往生・多念往生とまふすことなし。 「浄土真宗の習わしでは、「念仏往生」というのです。まったく、「一念往生」あるいは「多念往生」ということはありません」。  嘉禄3年(1227)に起きた法然没後の専修念仏者への弾圧においては、隆寛はもっとも問題がある人物とみなされ、奥州へ流されることになった。途中、神奈川県厚木市飯山に逗留し、そこで没しているのである。

神奈川と親鸞 前編17回

神奈川と親鸞 第17回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴  仲間の念仏者たち⑸ 聖覚➁―法然の門弟―
聖覚の墓。京都市・西法寺

聖覚の墓。京都市・西法寺

 北条政子三回忌の導師を勤めた聖覚の祖父は、後白河天皇を擁して保元の乱(1156年)で勝利を収めた藤原通憲(信西入道)である。通憲は官職は少納言ながら、その後の朝廷で絶大な権力を振るった。しかし平治の乱(1159)で敗死した。そのため18人いた男子はほとんど出家した。その一人の澄憲は、天台宗の僧で法印に昇り、唱導の名手であった。安居院に住んだので、彼の唱導は安居院流と呼ばれた。聖覚も法印の位と僧都の職を得、父の教えを受けてやはり安居院流の唱導の名手となった。また法然の吉水草庵に出入りし、その熱心な門弟でもあった。  ある日の吉水草庵で、入門してまだ日の浅い親鸞が信不退・行不退の問いかけをしたことがある。法然の三百人余りの門弟を集め、信不退(極楽往生のためには信心にもとづく念仏が重要で、念仏の回数は問題ではない)が大切か、行不退(いや、念仏は回数が重要、ずっと称え続けなければならない)が大切かと尋ねたのである(本連載第八回参照)。  この時、門弟たちのほとんどはどちらを選ぶべきか決められなかった。すると、   法印大和尚位聖覚并釈信空【法蓮上人】、信不退の御座に可着と云々。 「聖覚と信空が、「信不退」の席に着きますよ」と発言した。聖覚ははっきりと阿弥陀仏の本願を信じる心が大切だと主張したのである。まもなく親鸞も信不退を選び、法然も「源空も信不退の座につらなり侍るべし」と同様であった。  聖覚は親鸞より6歳年上の兄弟子で、これから十数年後の承久3年(1221)、聖覚は『唯信抄』を著わした。法然が説く本願の念仏を理解するためにはただ信心のみが重要、としたものである。親鸞はこの書物を尊重し書写して門弟に与え、また後年、その解説書である『唯信鈔文意』を著わしている。それは建長元年(1250)のことであった。  なお聖覚の叔父の一人明遍も法然の門弟であった。他方、従兄弟の貞慶は興福寺奏状を書き、法然や親鸞等8人が流罪、4人が死罪となった承元の法難の一原因を作っている。

神奈川と親鸞 前編16回

神奈川と親鸞 第16回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴   仲間の念仏者たち⑸ 聖覚➀―北条政子三回忌の導師―
聖覚の遺跡・西法寺。京都市

聖覚の遺跡・西法寺。京都市

 安貞元年(1226)7月11日、北条政子の三回忌供養のため丈六の阿弥陀堂供養が鎌倉で行われた。主催は北条時房であった。「丈六の阿弥陀堂」とは、宇治の平等院鳳凰堂等に安置されている大きさの阿弥陀の大仏(丈六の大きさ)が安置されるべき建物である。  供養の導師は臨済宗の退耕行勇であった。彼は源頼朝や政子の帰依を受けた、当時鎌倉でもっとも有力な僧であった。法要には北条泰時や時房たちが参列した。  二週間後の7月25日、もう一つの政子三回忌法要が行なわれた。主催は二階堂行盛であった。彼は政子の信任があつく、元仁元年(1224)に政所の執事(次官)となったが、翌年に政子が亡くなると出家した。義時没後の執権職争いでは泰時を支持し、評定衆の一員に選ばれて幕政の運営に当たっていた。そのころの事務官僚のトップであった。  行盛は政子供養のために別の寺院を建立し、その落慶法要を行なったのである。導師には聖覚僧都を京都から招いた。聖覚は天台宗の僧侶で、父の澄憲法印譲りの唱導の名手として有名であった。唱導とは説法のことで、聖覚は説法が大変上手だったのである。『吾妻鏡』同日条によれば、聖覚の説法を次のように記している。泰時・時房も参列した。   凡そ表白花を餝り、啓白玉を貫くの間、聴聞の尊卑随喜渇仰、言語の及ぶ所に非ず。  「政子殿への心を込めた供養の言葉は花を飾っているようであり、極楽往生の願いを込めた言葉は宝石を糸で連ねたようでした。それを聞いていた参列者は非常に喜び感動したことは文字で表わすことができません」。この法要は大成功であった。  なぜ幕府は聖覚僧都なる人物を重要な政子三回忌の導師に招いたのであろうか。それはおそらく、聖覚が関東の西の守りともいうべき箱根山に鎮座する箱根権現の支配者だったからであろう。箱根権現は頼朝以来、幕府安全の祈祷を凝らしてもらっていた重要な神社であった。箱根権現を味方につけておかなければ幕府は危ういのである。  興味深いことに、聖覚は法然の有力門弟で、親鸞とも非常に親しい友人であった。

神奈川と親鸞 前編15回

神奈川と親鸞 第十五回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴  仲間の念仏者たち⑷ 宇都宮頼綱➂―親鸞を常陸稲田に招く―
稲田頼重墓所。笠間市稲田・西念寺の境内

稲田頼重墓所。笠間市稲田・西念寺の境内

  (親鸞)聖人越後国より常陸国に越て、笠間郡稲田郷といふ所に隠居したまふ。  「親鸞聖人は越後国から常陸国に来られて、笠間郡稲田郷に隠れ住まわれました」(『親鸞伝絵(御伝鈔)』)。それは建保二年(一二一四)年のことであった。稲田郷の領主は稲田頼重という武士で、彼は宇都宮頼綱の弟であった(笠間市稲田・西念寺の伝え)。  親鸞は妻の恵信尼、娘の小黒女房、息子の信蓮房を伴っていた。恵信尼は貴族の女性で小黒女房は数え七、八歳、信蓮房は四歳の幼児である。従来よく言われていたように、越後から常陸までそんな家族を歩かせ、明日の食事も分からない聖の姿で放浪するよう旅ができるわけがない。それに、他人の領地に親鸞一家が勝手に家を建てて住みつくことなどできるはずがない。鎌倉時代は自己救済の観念が非常に強かった時代である。たちまち追い出されるか、下人として他人の所有物になってしまう。  また当時、武士団は惣領を中心にして団結していた。惣領は一族や家来に与えた領地についても、強い権限を残していた。稲田頼重の稲田郷は、笠間郡の実質的な領主である塩谷朝業の支配を受け、さらにその上に宇都宮頼綱の支配があった。その頼綱が、法然の熱心な門弟であり、親鸞の弟弟子であったからには、お互いに連絡なしであったとはとても考えられない。必ず連絡を取り合っていたであろう。現に、西念寺の伝では次のように伝えている。文中、「善信」は親鸞、「源空」は法然である。   越後の国配流、去年勅免ありし善信御房は、源空上人上足なり。はやく其地に請じて、化益を蒙るべしと教訓の始末を語る。  「(頼綱が頼重に)越後国に流されていて、先年許された親鸞殿は、法然上人の高弟です。 はやく稲田にお招きして、教えていただきなさいと命じました」。  こうして親鸞は宇都宮氏に守られて越後から関東へ安全な旅をし、またその保護で布教に当たった。親鸞の関東での活動について、頼綱がはたした役割は大きかった。