神奈川と親鸞 前編18回

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神奈川と親鸞 第18回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴   仲間の念仏者たち⑹ 隆寛➀―法然の門弟―
隆寛坐像。厚木市・光福寺蔵

隆寛坐像。厚木市・光福寺蔵

 親鸞が敬意を表していた兄弟子に、前回で取り上げた聖覚の他に隆寛がいる。隆寛の父は少納言藤原資隆で、隆寛はもともと天台僧である。幼いときに比叡山に登って出家した。親鸞より25歳の年上であり、元久2年(1205)には権律師に任ぜられている。法然の教えも受けていて、前年の元久元年には『選択本願念仏集』の書写を許されている。  法然の門弟の間では、その生前も没後も、一念義と多念義の争いが続いていた。一念義というのは、極楽浄土への往生は信心ひとつで決定する、あるいは一声の念仏で決定するとする考えである。多念義とは、一生の間数多くの念仏を称え続け、臨終に極楽往生が決定するという考えである。隆寛は、はじめ1日に三万五千遍の念仏を称え、遂には八万四千遍を日課とするようになっている。多念義である。彼は京都・長楽寺に本拠を置いたので、その系統は長楽寺流と呼ばれている。  しかし隆寛は、一念義の人たちと多念義の人たちとが論争を繰り返すことを好んではいなかった。彼は『一念多念分別事』を著わし、どちらかに執着して言い争ってはならないと誡めている。  親鸞は『一念多念分別事』をもとにして『一念多念文意』を著わし、隆寛同様に一方に執着するのはよくないと説き、最後を次の文で結んでいる。   浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり。またく一念往生・多念往生とまふすことなし。 「浄土真宗の習わしでは、「念仏往生」というのです。まったく、「一念往生」あるいは「多念往生」ということはありません」。  嘉禄3年(1227)に起きた法然没後の専修念仏者への弾圧においては、隆寛はもっとも問題がある人物とみなされ、奥州へ流されることになった。途中、神奈川県厚木市飯山に逗留し、そこで没しているのである。

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