神奈川と親鸞 前編第6回
三善康信の先祖三善清行(菅原道真の争った平安時代の大学者)の居住後の石碑。京都市下京区・醒泉小学校の校庭
建保二年(一二一四)年、親鸞と恵信尼一家が関東に入ったころ、鎌倉幕府の高官には恵信尼の従兄弟がいた。三善康信と弟の康清である。康信は幕府の重要役所である問注所(裁判を担当)の執事(長官)であったし、康清も公事奉行という重要な職にあった(拙著『親鸞をめぐる人びと』「三善康信」の項と「三善康清」の項。自照社出版、二〇一二年)。
『近世防長諸家系図綜覧』(防長新聞社山口支局、一九六六年)に収められている『椙杜社家家譜』をもとに三善家の系図を示すと次のようになる。
三善為康――康光――康信
│ └康清
└為教――恵信尼
康信は実に優秀な人物で、後白河法皇のお気に入りであった。法皇は、平清盛全盛期から源平の戦い、そして源頼朝の幕府開設に対し、一歩も引かずに貴族の利益を守り切った。法皇の相談相手である蔵人頭は吉田経房という貴族であった。そして経房の下の役職にあり、手足となって働いたのが康信であった。いわば蔵人頭の秘書課長ともいうべきこの役を出納といい、五位の位を持つ貴族が就任したので五位出納と通称された。法律に精通し、人事にも詳しく、優れた交渉能力がある者でなければ務まらない。
平家全滅の二年前の寿永二年(一二八三)、先を見とおした後白河法皇は、頼朝との協力関係を発展させるために、康信を現職のままで鎌倉に送った。頼朝は康信の実力を大いに買い、やがて幕府を開くと重職につけて運営にあたらせたのである。親鸞と恵信尼が関東に入った建保二年(一二一四)、康信はすでに七十五歳の高齢であったが、依然として幕府の重臣であった。
親鸞は放浪するように越後から関東へ入ったのではないし、関東では大豪族宇都宮頼綱一族の保護下にあった。親鸞の活動を「野の聖」などと詠嘆調で美化するのは誤りである。史料では確認できるかぎり、彼の有力門弟は武士たちである。
神奈川と親鸞 第六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
三善康信―恵信尼の従兄弟―