神奈川と親鸞 第六十六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
真楽寺と親鸞⑴─国府津:交通の要地─
小田原市国府津の真楽寺(眞樂寺)は、親鸞がここを拠点にして教えを説いたという伝えが残っている。また神奈川県の各地にも、それぞれの寺院の開基またはそれに近い僧侶が国府津で親鸞の教えを受けた、という伝えのある寺院がある。国府津と鎌倉は親鸞の相模国布教の2大拠点であったと推定される。
真楽寺は、JR国府津駅の近くで、東海道(国道一号線)に面したその北側にある。このあたりでは東海道はJR東海道線の南側を通っているので、真楽寺は裏手にJR線を背負っている形になっている。しかし、もともとはJR線の北側の丘陵の上にあった。
国府津は鎌倉時代から宿場町として、さらに市が開かれる所として栄えていた。地形的には丘陵が海に迫っており、農地を開く余地はほとんどなかったと推定される。真楽寺から東海道を越え、人家の先の西湘バイパスを越えれば太平洋である。真楽寺から海までは200メートルもない。
また真楽寺から西に向かってしばらく行くと、東海道と直角に交差した所から始まる曽我道(国府津道)が北に向かって伸びている。この曽我道は山間部と海岸部とを結ぶ重要な街道であった(『小田原市史通史編 原始 古代 中世』第五章第三節「2 国府津地区の復元」、小田原市、1998年)。また巡礼街道(小田原市飯泉の飯泉観音(勝福寺)に至る)・府中道(伊勢原市の大山に至る)等も国府津で東海道に合流していた。そして国府津には中国からの貿易船が入る港の施設もあったから、まさに国内外の物資の集散地であった。
なお「国府津」という地名は、「国府の近くの港」という意味であり、諸国に存在したものである。相模国の国府津なら、付近に国府があったはずである。しかし相模国の国府はどこであったのか、実はまだ確定していないのである。
真楽寺は聖徳太子の開創という。平安時代以降は天台宗となり、鎌倉時代の安貞2年(1228)、時の住職の性順が相模国を布教中の親鸞に帰依して浄土真宗に改めたという。