神奈川と親鸞 前編67回

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神奈川と親鸞 第六十七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

真楽寺と親鸞⑵─御勧堂─

「御勧堂」の石碑


 小田原市国府津の真楽寺と親鸞に関し、『反故裏書(ほごのうらがき)』に次のように記されている。『反故裏書』は浄土真宗史上、歴史学者として知られた顕誓が永禄11年(1568)に執筆したものである。顕誓は蓮如の孫である(蓮如─蓮誓─顕誓)。

  (親鸞は)相模国あしさげの郡高津の真楽寺、又鎌倉にも居し給と也。

 「親鸞聖人は足柄下郡国府津の真楽寺に、また鎌倉にも住んでおられました」。「あしさげ」は「足下」で、「高津(こうづ)」は「国府津」である。江戸時代の『大谷遺跡録』にも、

  高祖五十六歳、稲田郷にましましながら、安貞二年のころより、よりより此所にかよひ給ふ。

「親鸞聖人は56歳、稲田郷に住んでおられながら、その安貞2年(嘉禄元、1226年)のころからこの真楽寺に通われました」とある。

 親鸞が国府津で教えを説いたのは、勧堂(すすめどう)という小堂であったともいわれている。そのことは『大谷遺跡録』にも、

  相州国府津の勧堂は、高祖聖人在住の時、説法利生の芳趾なり。

 「相模国国府津の勧堂は、親鸞聖人が住んでいた時に教えを説かれた遺跡です」とある。
 蓮如の御文(御文章)にも、

  御在世の昔、往生の一途を教化したまふ、其堂場の御跡なりとて、あれなる松の木の
  間に草むらの御座候を、今に勧堂とは申習はしてこそ候へ。

 「親鸞聖人がご存命のころに極楽往生のただ一つの道を説かれましたが、その道場の跡であるとして、あそこの松の木の間にある草むらを、現在に至るまで勧堂と言い習わしてきました」と示されている。
 以上を記念して「御勧堂」と彫り込まれた大きな石碑が、真楽寺の近く、東海道の海岸寄りに建てられている。

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