神奈川と親鸞 前編57回

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神奈川と親鸞 第五十七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑵─善鸞はほんとうに義絶されたのか?─

善鸞坐像。厚木市飯山・弘徳寺蔵。同寺蔵の信楽坐像と似た風貌

善鸞坐像。厚木市飯山・弘徳寺蔵。同寺蔵の信楽坐像と似た風貌


 現代では、親鸞の息子善鸞は親に背いた親不孝者で、とうとう父から親子の縁を切られた(義絶。勘当)と思われている。それは親鸞84歳のころで、親鸞最晩年の大悲劇、親鸞はお気の毒であった、とされている。しかし、はたしてそれは事実であったろうか。
 覚如は「本願寺」の名称を創設し、本願寺教団の基礎を固めた人物であるが、彼が親鸞を本願寺第一世としたのはごく当然ながら、第二世を善鸞の息子如信としているのは非常に興味深い。そして第三世は覚如自身である。これらの人々の関係を系図で示すと次のようになる。

親鸞①──善鸞──如信②
┃        ┃
┃       ┌光玉
┠───覚信尼─覚恵──覚如③
恵信尼

 如信は幼児から親鸞の教えを受け、人格優れた人物として知られていた。覚如も如信の教えを受けている。覚如がその如信を本願寺第二世に据えるのは当然ながら、しかしその父の善鸞が親鸞をひどい目にあわせ、親鸞から縁を切られたのだったら、息子如信を第二世に据えることができるであろうか。覚如は会う人ごとにいちいち弁解しなければなるまい。それなら第二世に覚信尼または覚恵を据えるという選択肢もあったはずである。
 現代のいわゆる真宗十派のうち、第二世を如信としているのは実は真宗大谷派・浄土真宗本願寺派・真宗木辺派の三派だけである。他の七派はそれぞれゆかりの人物を第二世に据えている。そして、そのうちの二つの派が第二世に善鸞を据えているのである。ほんとう義絶されていたのであったら、そうはいくまい。
 次回から善鸞に関するいくつかの挿話を検討していきたい。

神奈川と親鸞 前編57回」への4件のフィードバック

  1. 従覚『慕帰絵詞』(覚如の一代記)に「高田・顕智が訪れた時、親鸞と善鸞が火鉢越しにひそひそ話をしていて、中断したような場面」があります。覚如は如信から親鸞について色々聞いているので、❝三代伝持❞には如信が欠かせなかったはずです。それを合理化するために善鸞も否定できなかったのでしょう。覚如「苦肉の策」が善鸞の位置付けだと思います(文中祖師方の尊称を略す)。

  2. 【追伸】
    当時の伝統は「男系の継承」です。従って、覚信尼の第二世はあり得ません。また覚恵は親鸞の曾孫ですから、面綬足りえません。結局、第二世は如信しかありません。当然、如信の父善鸞を否定することは自らの❝三代伝持❞を否定することになります。小生はそれらを合理化するための「苦肉の策」が善鸞の位置付けだと思います。結局、覚如が「本願寺中心史観(本願寺門主の世襲・血統主義)」の確立を「一生の使命」とした結果が善鸞の「微妙」な位置付けではないかと考えます(文中祖師方の尊称を略す)。

  3. 【追伸】②
    覚如「苦肉の策」の代表が『口伝抄』の「恵信御房男女六人ノ君達ノ御母儀」でしょう。実子四人(信蓮房・益方入道・小黒ノ女房・覚信尼)に養子二人(範意印信・善鸞)を取り込んで、先妻(玉日か?)の抹消を計ったのではないでしょうか。
    結果『善鸞義絶状』で慈信房が恵信尼のことを「マヽハヽ」「マヽハヽノアマ」と呼んで讒言していることを親鸞が嘆いている内容になったのだと思います(文中祖師方の尊称を略す)。

  4. 【追伸】③
    すみません。小生、勘違いしてました。覚恵は親鸞の孫でした。
    但し、まだ若かったと思われますのでやっぱり「親鸞面授」とはいかなかったのではないでしょうか。親鸞入滅の時、母親の覚信尼が38才(親鸞52才の時誕生)ですから・・・。
    覚如としては、覚恵を第二世とした方が確実に❝三代伝持❞の血脈(血統)にはふさわしかったと思うのですが、❝法脈❞上関東の門徒集団には認められない、と判断したのではないでしょうか。このあたりにも如信を第二世とした覚如の「苦渋の選択」がある様に思います(文中祖師方の尊称を略す)。

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