神奈川と親鸞 第五十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
信楽と厚木市飯山の弘徳寺⑴─豪族の相馬氏─
厚木市飯山の弘徳寺は、開基を親鸞の門弟信楽(しんぎょう)とする二十四輩第五の寺院である。信楽は覚如の『口伝抄』に、京都で親鸞に逆らったと書かれている人物である。弘徳寺の寺伝によれば、信楽は下総国の大豪族相馬氏の系譜を引くという。
まず『新編相模国風土記稿』によると、飯山には古い地蔵堂があったとする。それは聖徳太子の発願によって豪族秦河勝(はたの・かわかつ)が地蔵菩薩像を安置するために建立した建物だったとされている。聖徳太子が観音菩薩の生まれ変わりとされることはよくあるが、地蔵菩薩との関わりで語られることは珍しい。
さて弘徳寺の伝では、信楽は千葉常胤の次男である相馬次郎師常の息子、三郎義清であったという。千葉氏は代々千葉介(ちばのすけ)を称した下総国の大豪族であった。常胤は数人の息子たちとともに源頼朝の挙兵に加わり、鎌倉幕府創立に大きな功績をあげた。
また相馬氏は、平安時代に下総国北部の相馬郡(茨城県)を中心に大勢力を張った平将門の後として知られていた。将門は相馬小次郎と称している。師常は将門の子孫ではないが、子孫の信田師国の養子となって領地を受け継ぎ、新たな相馬氏を興したのである。
師常は、建仁元年(一二〇一)、に父が亡くなったために出家して法然に入門した。六十三歳であった。奇しくも二十九歳の親鸞が法然に入門したのと同じ年である。そこで親鸞と師常とは年齢がかなり違っていても兄弟弟子ということになる。
言及元年(一二〇五)十一月十五日、師常は鎌倉の屋敷で念仏を称えながら亡くなった。『吾妻鏡』同日条に次のようにある。
相馬次郎師常卒す。(中略)端座合掌せしめて、更に動揺せず。
決定往生、敢えてその疑い無し。
「相馬師常が亡くなった。仏前にきっちり座らせてもらい、合掌して念仏しまったく動かなかった。必ず極楽に往生したであろうことは疑いない」。