神奈川と親鸞 第五十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
嘉禄の法難の北条時氏、その後
比叡山の僧たちが専修念仏の隆盛を嫌い、京都東山の法然の墓所を襲ったのは嘉禄3年(1227)6月12日のことであった。六波羅探題の北条時氏はこれを阻止、宇都宮頼綱に連絡して法然の遺骸を無事に二尊院に送らせた。時氏は弱冠25歳、頼綱は息子経時4歳の婚約者の祖父という近い関係であった。頼綱は親鸞を稲田に招いた武将である。
6月19日、鎌倉では北条政子3回忌のために建立した阿弥陀堂の落慶供養を翌日に控え、執権北条泰時の次男時実が家来に斬り殺されてしまった。まだ16歳であった。知らせを受けた時氏は急ぎ鎌倉に帰った。政子は法然に念仏の教えを受けたことがある。落慶供養は翌7月11日に行なわれ、時氏も出席したことが『吾妻鏡』に記されている。
7月25日、政子供養のために建立されたもう一つの堂の落慶法要が行なわれた。導師として京都から招かれたのが聖覚であった。彼が6年前に書いた『唯信抄』は親鸞が非常に大切にし、自ら書写して多くの門弟たちに与えている。
京都に戻った時氏は六波羅探題の仕事に励んだ。彼は父泰時に非常に期待されていた。しかし寛喜2年(1230)4月、たまたま鎌倉に帰る途中で病気になり、6月18日に亡くなった。その日の『吾妻鏡』の記事には、
年二十八。(中略)嘉禄三年六月十八日次男卒去、四ケ年を隔てて今日此の事有り。
愁傷の至り、喩へ取る物なし。
「4年前の次男時実と同じ日に亡くなった。まことに気の毒なことは喩(たと)えようがない」とある。時氏は鎌倉の大慈寺に葬られた。
この時点で泰時は男子をすべて失った。少なくとも孫の経時が成人するまで政権を安定的に保たなければならない。その有力な方策としての政子供養の一切経校合・書写には、さらに力が込められたであろう。校合は親鸞が任されていた。ちなみに経時も早死にし、その男子二人は経時のあとを継いだ弟時頼のために出家させられている。