神奈川と親鸞 前編48回

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神奈川と親鸞 第四十八回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

了心と横浜市栄区の光明寺

光明寺本堂

光明寺本堂

 横浜市栄区上郷町の光明寺は、もと天台宗の仙福寺であった。聖徳太子草創の寺院であったという。その仙福寺第五十二世の住職了恵の時、安貞年間(1227〜1229)、鎌倉郡に来た親鸞の門に入って教えを受けるようになったと伝えられている。それは親鸞が55歳から57歳のころであった。『新編相模国風土記稿』の光明寺の項には、次のように記されている。当時、栄区付近は鎌倉郡に属していた。

  五十二世の僧了恵が時、執権北条泰時親鸞を招き、鶴岡にて蔵経校合あり。
  時に了恵、親鸞に帰依し、終に師弟の約をなし、当宗となりて名を了心と改む。

 「五十二世住職の了恵の時、執権北条泰時が親鸞を招き、鶴岡八幡宮において一切経の校合事業が行なわれました。その時、了恵は親鸞の門に入って師弟の契約を結びました。仙福寺も浄土真宗となり、了恵は了心と名を改めました」。
 親鸞が鎌倉に姿を現わすようになったのは、55〜56歳のころと推定される。それは、北条泰時が伯母政子供養のための一切経書写の準備として、親鸞に一切経校合を依頼したからと考えられる。これは覚如の『口伝抄』に記されている話である。
 泰時は大恩ある政子のため、そして自らの政治基盤を固めるため、一切経を書写して政子が崇敬していた三井寺に奉納する企画を立てた。一切経は大蔵経ともいう。経典全部という意味である。中国・朝鮮以来、大乗仏典は5千数百点存在するとされてきた。それぞれの経典の文章・文字の異同を調べ、どれが正しいかを決める作業が校合である。その作業が親鸞が任されたということである。経典についてのよほどの知識と識見がなければできない。52歳で『教行信証』を執筆したばかりの親鸞は、まさに適任とされたのであろう。
 また親鸞は7体の聖徳太子像を造立して付近の寺院に配置したとされる。これを鎌倉七太子と称している。光明寺にも配置されたけれども、失われてしまったという。

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