神奈川と親鸞 第四十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
六老僧了源と善福寺⑸─親鸞聖人坐像─
大磯町の善福寺には「親鸞聖人坐像」が安置されている。この像は木造で、鎌倉時代後期の作と推定される優れた彫像である。「木造伝了源坐像」の名称で国指定重要文化財に登録されている。つまり、国の文化財調査の時点では善福寺開基の了源の像であろうと推定され、手続きが進められたのである。理由は恐らく、第一に本像の面貌(顔)が一般的によく知られた親鸞の面貌とは異なるということであろう。
親鸞の面貌といえば、「安城(あんじょう)の御影(ごえい)」(西本願寺蔵)に典型的に見られるように、額に深く皺(しわ)がより、口が小さい。美術史の観点からこれを「親鸞顔」というと、美術史研究者から聞いたことがある。その面貌は、善福寺像ではかなり異なる。善福寺像の面貌は壮年の様子を示していて皺は浅く、口も小さくない。
第二に、善福寺像では合掌しており、念珠(浄土真宗では、数珠を念珠と称している)を持っておらず、首に帽子(もうす。実は頭にかぶる頭巾)も巻いていない。
これも「安城の御影」に描かれているように、親鸞像は帽子を巻き、両手に念珠を持つものと思われてきた。「安城の御影」は親鸞83歳の時に法眼朝円(ほうげん・ちょうえん)が描き、親鸞が自ら銘文を書きこんだものである。
善福寺像のような、上記第一・第二の特色を持つ像は、関東の浄土真宗寺院には数点以上残されている。しかし長い間、この姿の像は親鸞像ではなく、開基像ではないかとされてきた。親鸞像でもないのに尊重され続けて来たので、そのように判断することが妥当とされたのであろう。善福寺像もその一つと推定される。
しかし一方、善福寺では親鸞坐像であるとも言い伝えてきた。そしてそれが本来の姿であったと考えられる。なぜなら親鸞坐像のもっとも古い作例は、京都東山に東国の門弟たちによって建立された親鸞廟に安置された親鸞坐像で、それは合掌像だからである。善福寺像はその影響下に造立されたと推定されるのである。次回にはそのことを見ていきたい。