神奈川と親鸞 第19回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑹ 隆寛➁―相模飯山にて没―
嘉禄の法難で専修念仏者たちを守る宇都宮頼綱(中央馬上)と塩谷朝業(その右。いずれも法体)
嘉禄元年(1225)、延暦寺の学僧である定照が『弾選択』という文章を作り、京都で明らかにしました。法然の『選択本願念仏集』を非難したのです。翌年、隆寛は『顕選択』を書いて『弾選択』に答えました。この中で隆寛は手ひどく定照を罵り、
汝の僻破の中らざる事は、暗天の飛礫の如し。
「貴公の下手な非難は的外れで当たっていない。まるで暗闇に飛ばすつぶてのようなものだ」と嘲った。隆寛は法然門下の理論的指導者として知られており、『弥陀本願義』『別辞念仏私記』『一念多念分別事』『自力他力事』等の著書もある。
しかし『弾選択』への対応が大きな原因の一つになって、嘉禄3年(1227)に専修念仏者たちは弾圧され(嘉禄の法難)、隆寛も奥州へ流されることになった。流罪に遭ったものは、他に空阿(薩摩国)と成覚(壱岐国)がいた。
隆寛を京都から奥州へ護送する役(領送使。通称は追立て使)となったのが毛利季光という武士であった。彼は鎌倉幕府の政所の別当(長官)大江広元の息子である。広元は事務官僚として幕府に仕えた多くの貴族たちの統領的立場にあった。季光はその四男で建仁2年(1202)の生まれ、源実朝に仕えていたが、その暗殺後出家して西阿と名のっていた。彼は毛利荘(厚木市付近)を領地としていて、後に評定衆の一員となり、またその娘は執権北条時頼の正室となるなど幕府内の有力者であった。
季光は護送中にすっかり隆寛に帰依するに至った。そして自分の屋敷が毛利荘の飯山にあったので、高齢の隆寛を自宅に留まらせ、代わりに隆寛の門弟実成が奥州に向かった。
しかし、老齢のためか流罪の旅の疲れからか、引き込んだ風邪がもとで年末に亡くなった。この間、親鸞が隆寛を訪ねた可能性があろうと私は考えている。終焉の地は厚木市飯山の光福寺であったとされ、同寺境内に隆寛の墓所がある。また光福寺の伝えでは、隆寛の代わりに奥州へ向かった実成は隆寛の実子であったという。