神奈川と親鸞 前編17回

このエントリーをはてなブックマークに追加
神奈川と親鸞 第17回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴  仲間の念仏者たち⑸ 聖覚➁―法然の門弟―
聖覚の墓。京都市・西法寺

聖覚の墓。京都市・西法寺

 北条政子三回忌の導師を勤めた聖覚の祖父は、後白河天皇を擁して保元の乱(1156年)で勝利を収めた藤原通憲(信西入道)である。通憲は官職は少納言ながら、その後の朝廷で絶大な権力を振るった。しかし平治の乱(1159)で敗死した。そのため18人いた男子はほとんど出家した。その一人の澄憲は、天台宗の僧で法印に昇り、唱導の名手であった。安居院に住んだので、彼の唱導は安居院流と呼ばれた。聖覚も法印の位と僧都の職を得、父の教えを受けてやはり安居院流の唱導の名手となった。また法然の吉水草庵に出入りし、その熱心な門弟でもあった。  ある日の吉水草庵で、入門してまだ日の浅い親鸞が信不退・行不退の問いかけをしたことがある。法然の三百人余りの門弟を集め、信不退(極楽往生のためには信心にもとづく念仏が重要で、念仏の回数は問題ではない)が大切か、行不退(いや、念仏は回数が重要、ずっと称え続けなければならない)が大切かと尋ねたのである(本連載第八回参照)。  この時、門弟たちのほとんどはどちらを選ぶべきか決められなかった。すると、   法印大和尚位聖覚并釈信空【法蓮上人】、信不退の御座に可着と云々。 「聖覚と信空が、「信不退」の席に着きますよ」と発言した。聖覚ははっきりと阿弥陀仏の本願を信じる心が大切だと主張したのである。まもなく親鸞も信不退を選び、法然も「源空も信不退の座につらなり侍るべし」と同様であった。  聖覚は親鸞より6歳年上の兄弟子で、これから十数年後の承久3年(1221)、聖覚は『唯信抄』を著わした。法然が説く本願の念仏を理解するためにはただ信心のみが重要、としたものである。親鸞はこの書物を尊重し書写して門弟に与え、また後年、その解説書である『唯信鈔文意』を著わしている。それは建長元年(1250)のことであった。  なお聖覚の叔父の一人明遍も法然の門弟であった。他方、従兄弟の貞慶は興福寺奏状を書き、法然や親鸞等8人が流罪、4人が死罪となった承元の法難の一原因を作っている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です