神奈川と親鸞 第十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑶ 塩谷朝業➁―法然の遺弟―
源実朝坐像。甲府善光寺蔵
承久元年(一二一九)一月、将軍源実朝は鶴岡八幡宮で暗殺された。塩谷朝業は、主君であり親しい友でもあった実朝を失って悲しみ、領地の下野国塩谷郡に戻って出家した。
朝業は元久元年(一二〇五)年に宇都宮頼綱が下野国から常陸国笠間郡に攻め込んだ時、後半の指揮官として笠間占領を完成させた。以後、朝業が笠間経営にあたった。九年後、親鸞は越後から笠間郡の稲田郷に入った。親鸞は朝業と交流があったはずである。
出家の翌年、朝業は京都に上り、法然の門弟である善慧房証空に入門して念仏を学ぶことになった。法名は信生である。それは兄の頼綱が法然の没後、証空の門に入って指導を受けていたという由緒によるだろう。ただし朝業は法然の没後の門弟としての意識が強かった。すると、朝業は親鸞の弟弟子ということになる。また後のことであるが、朝業の三男朝貞は出家して親鸞の門弟になり、賢快と名のったという。
和歌に優れていた朝業には、『信生法師集』という歌集がある。その前半は旅日記で、『信生法師日記』と呼ばれている。それによれば、嘉禄元年(一二二五)二月、朝業は京都を出て鎌倉に赴いた。幕府では執権義時が前年に亡くなり、長男の泰時が跡を継いでいた。朝業は北条政子の許可を得て、持仏堂で実朝の念仏供養をしている。鎌倉滞在の間に泰時の依頼を受けた気配で、次に朝業が向かったのは信州であった。そこで前年に泰時によって流されていた伊賀光宗に会っている。
義時没後、武士の慣行によれば、跡継ぎとなるべきは正妻の嫡男政村二十歳であった。ただし前妻の嫡男朝時三十二歳も名のりを上げていた。しかし政子や事務官僚の支持を受けた、政治にも軍事にも優れた業績を上げていた泰時四十二歳が二人を抑えて執権職に就いた。その際、政村の伯父で後見役だった光宗を信州に追いやっていたのである。
まもなく光宗は鎌倉に呼び戻され、政治に復帰した。幕府の安定を望んだ泰時の方針であった。光宗の様子を見に行った朝業は、泰時の信頼を得ていたのである。