法然聖人とその門弟の教学
第2回 「三学非器」「いづれの行もおよびがたき身」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄
仏教の修行方法を簡潔にまとめられたものに三学があります。三学とは、戒(戒めを守る)・定(精神統一をする)・慧(智慧を身につける)をいいます。戒を守ることによって、定ができるようになり、定によって真実を見きわめる智慧を身につけていく修行のことです。
ところが、法然聖人はこのような修行を積み重ねていっても仏に成ることができない現実を悲しまれています。
かなしきかな、かなしきかな。いかがせん、いかがせん。ここに我等ごときは
すでに戒定慧の三学の器にあらず。(『法然上人行状絵図』)
この文には、法然聖人が比叡山で修行されていた中で悩み続けられた思いが告白されています。法然聖人は、自身のみならず「我等」が「すでに」三学という、仏教の基本的な修行を究める器量を持ちあわせていないことを悲歎されています。「我等」という言葉には、阿弥陀仏からのまなざしに照らされた凡夫のすがたが、そして「すでに」という言葉からは、今がいかなる時代であるのかを自覚されています。法然聖人は、このような戒・定・慧がない三学非器の者にふさわしい教えとして、念仏を勧められたのです。
この法然聖人の教えを受け継いだ親鸞聖人もまた同じような自覚をされています。
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(『歎異抄』)
親鸞聖人は、「どのような修行も満足には修めることのできないものであるから、どうあっても地獄は私の定められた住み家なのです」と語っています。この文は、「ただ念仏」をお勧めくださった法然聖人の説法を全身に受け止め、絶対的な信頼から発せられた言葉です。なぜならば、親鸞聖人にとって阿弥陀仏の本願以外に自身が救われる道を見出せなかったからです。「いづれの行もおよびがたき身」であると自覚されてこそ、「弥陀の誓願不思議」が知らされてくるのです。