法然聖人とその門弟の教学
第1回 「愚癡にかえりて」「愚者になりて」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄
仏教とは、「仏の教え」をいいます。仏(ブッダ)とは、「真実に目覚めた者」のことです。また、仏の教えを聞いた者は、真実に目覚め、仏に成る道が説かれますから、仏教とは「仏に成る教え」をいいます。
法然聖人は「仏に成る」には、二つの道があると説かれています。一つは聖道門であり、もう一つは浄土門です。
聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、
浄土門の修行は、愚癡にかえりて極楽にうまる。(『浄土宗大意』)
聖道門とは、すべてのものの真実の姿を明らかにする智慧を究めることによって、この生死である迷いの世界を離れる教えをいいます。一方、浄土門とは、真実に暗い愚かな身であることに気づいて、極楽浄土に生まれる教えをいいます。これは「智慧を究めて生死を離れる」聖道門の修行と対比しながら、「愚癡にかえりて極楽に生まれる」という浄土門の行である念仏のはたらきについて説かれたものです。「智慧をきわめて」と「愚癡にかえりて」とでは、仏に成る方向性が全く異なります。
この法然聖人の「愚癡にかえりて極楽にうまる」という言葉は、その門弟である親鸞聖人の著述の中にも見ることができます。
故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひし(『親鸞聖人御消息』)
親鸞聖人は、いまは亡くなられた法然聖人が、「浄土の教えに生きる人は、わが身の愚かさに気づいて往生するのである」と仰せになっていたと語っています。
では、「愚癡にかえりて」「愚者になりて」とはどのような状態をいうのでしょうか。「かへりて」「なりて」とは、決して「このままでよい」と言っているわけではありません。「愚者が往生する」ではなく、「愚者になりて往生する」というお言葉だからです。また、他人と比較して私は愚者であると言おうとしているわけでもありません。
これは私という存在自体が問われるあり方の中で、その根本が自覚されていくということであり、私は愚者であるとしか言いようがない存在であると知らされることです。つまり、愚者と知らなかった者が、愚者であることに気づかされたという表現であり、それは「ただ念仏」によって自覚されてくるのです。
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神奈川と親鸞 前編69回
神奈川と親鸞 第六十九回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
真楽寺と親鸞⑷─帰命石─
かつて国府津には中国からの船も逗留する港があった。中国はすでに宋の時代になって久しいが、依然として「唐」が代名詞として使われることが多かった。。
蓮如の謡曲『国府津』に、次の文がある。
扨(さ)ても古へ開山上人、此所に御逗留の折節(おりふし)、来朝せる唐船の中に、
高さ七尺横三尺余の霊石あり。則ち天竺仏生国の石なればとて、親鸞自ら御指を以て
二つの尊号を十字八字にあそばされしを、石の名号と申し奉り、安置せる所を則ち
真楽寺とは申し候。
「さてさて昔、親鸞聖人がこの国府津に滞在しておられたころ、日本に来た中国の船の中に縦七尺・横三尺余りの霊力がこもった石がありました。これは釈迦が誕生した所であるインドの石に間違いないと、親鸞聖人は自分の御指で「帰命盡十方無㝵光如来」という十字名号と「南无不可思議光佛」と書かれたのを、石の名号と申し上げており、それを安置してある所をすなわち真楽寺と申しています」。
この「霊石」は、その後、帰命石(きみょうせき)と呼ばれて真楽寺に伝えられてきた。ただし現在、この石は地面の中に埋められていて、その上に帰命堂がある。したがって帰命石を見ることはできない。『新編相模国風土記稿』にその模写が記載されている。
また帰命堂には帰命石の複製と拓本が安置されている。その銘文は、
右志者鏡空行光門弟一向専修念仏者等
帰命盡十方无㝵光如来
南无不可思議光仏
建武元戌十一月十二日同心敬白
である。真楽寺の寺伝では、中央の二つの名号は親鸞が書いたもので、左右の銘文は覚如が国府津に立ち寄った際に書き込んだものとしている。
神奈川と親鸞 前編68回
神奈川と親鸞 第六十八回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
真楽寺と親鸞⑶─蓮如の謡曲『国府津』─
蓮如の御文(御文章)『国府津』は、東国巡拝の折に国府津に立ち寄り、親鸞教化の話に感動したことを文章にしたものである。現代では『国府津』は蓮如作の謡曲とされているが、もとは御文だったのを後世に謡曲としたものである。謡曲とは能楽の台本である。
『国府津』は次のような内容が書かれている。
(前略)是は都方(みやこ・かた)より出たる一向専修の念仏者にて候。偖(さて)も
我(わが)祖師 東関のさかひに二十余回の星霜をかさね、辺鄙(へんぴ)の郡萌を
済度せしむ。
中にも相州足下の郡江津(こうづ)に、七年御座をしめ給う霊場なれども、未だ参詣
申さず候程に、此度思ひ立ち彼の御旧蹟へと赴き候。
「私は京都から来た一向専修の念仏者です。ところで私の師匠の親鸞聖人は、東国の世界で20余年を過ごし、地方の人たちを念仏で導きました。
なかでも相模国足柄下郡国府津は七年間逗留された霊場ですけれども、私はまだ参詣したことがありません。そこで今回思い立ってそのご遺跡へ向かったのです」。
続いて旅の様子を、
草に行き、露に宿りていさなとるいさなとる、海山かけて立つ雲の、いや遠ざかる
旅衣(たびごろも)、きのふと明し、けふと暮れ、かはるあるじの宿宿を、こえて
さ川(早川。はやかわ)の程もなく、江津の里に着きにけり着きにけり。
「昼間は草を踏んで歩み、夜中は夜露に濡れながら野宿をし、海や山に立つ雲を見ながら旅装束で毎日歩き続け、街道沿いの宿に泊まっていくうち、早川を越えると間もなく国府津の里に着きましたよ」と口調よく述べている。「いさな」は「海」の枕詞である。
早川は箱根山頂上の芦ノ湖の最北部から発し、箱根町から小田原市西部を流れ、JR東海道線早川駅の北で太平洋に注ぐ川である。
神奈川と親鸞 前編67回
神奈川と親鸞 第六十七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
真楽寺と親鸞⑵─御勧堂─
小田原市国府津の真楽寺と親鸞に関し、『反故裏書(ほごのうらがき)』に次のように記されている。『反故裏書』は浄土真宗史上、歴史学者として知られた顕誓が永禄11年(1568)に執筆したものである。顕誓は蓮如の孫である(蓮如─蓮誓─顕誓)。
(親鸞は)相模国あしさげの郡高津の真楽寺、又鎌倉にも居し給と也。
「親鸞聖人は足柄下郡国府津の真楽寺に、また鎌倉にも住んでおられました」。「あしさげ」は「足下」で、「高津(こうづ)」は「国府津」である。江戸時代の『大谷遺跡録』にも、
高祖五十六歳、稲田郷にましましながら、安貞二年のころより、よりより此所にかよひ給ふ。
「親鸞聖人は56歳、稲田郷に住んでおられながら、その安貞2年(嘉禄元、1226年)のころからこの真楽寺に通われました」とある。
親鸞が国府津で教えを説いたのは、勧堂(すすめどう)という小堂であったともいわれている。そのことは『大谷遺跡録』にも、
相州国府津の勧堂は、高祖聖人在住の時、説法利生の芳趾なり。
「相模国国府津の勧堂は、親鸞聖人が住んでいた時に教えを説かれた遺跡です」とある。
蓮如の御文(御文章)にも、
御在世の昔、往生の一途を教化したまふ、其堂場の御跡なりとて、あれなる松の木の
間に草むらの御座候を、今に勧堂とは申習はしてこそ候へ。
「親鸞聖人がご存命のころに極楽往生のただ一つの道を説かれましたが、その道場の跡であるとして、あそこの松の木の間にある草むらを、現在に至るまで勧堂と言い習わしてきました」と示されている。
以上を記念して「御勧堂」と彫り込まれた大きな石碑が、真楽寺の近く、東海道の海岸寄りに建てられている。
神奈川と親鸞 前編66回
神奈川と親鸞 第六十六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
真楽寺と親鸞⑴─国府津:交通の要地─
小田原市国府津の真楽寺(眞樂寺)は、親鸞がここを拠点にして教えを説いたという伝えが残っている。また神奈川県の各地にも、それぞれの寺院の開基またはそれに近い僧侶が国府津で親鸞の教えを受けた、という伝えのある寺院がある。国府津と鎌倉は親鸞の相模国布教の2大拠点であったと推定される。
真楽寺は、JR国府津駅の近くで、東海道(国道一号線)に面したその北側にある。このあたりでは東海道はJR東海道線の南側を通っているので、真楽寺は裏手にJR線を背負っている形になっている。しかし、もともとはJR線の北側の丘陵の上にあった。
国府津は鎌倉時代から宿場町として、さらに市が開かれる所として栄えていた。地形的には丘陵が海に迫っており、農地を開く余地はほとんどなかったと推定される。真楽寺から東海道を越え、人家の先の西湘バイパスを越えれば太平洋である。真楽寺から海までは200メートルもない。
また真楽寺から西に向かってしばらく行くと、東海道と直角に交差した所から始まる曽我道(国府津道)が北に向かって伸びている。この曽我道は山間部と海岸部とを結ぶ重要な街道であった(『小田原市史通史編 原始 古代 中世』第五章第三節「2 国府津地区の復元」、小田原市、1998年)。また巡礼街道(小田原市飯泉の飯泉観音(勝福寺)に至る)・府中道(伊勢原市の大山に至る)等も国府津で東海道に合流していた。そして国府津には中国からの貿易船が入る港の施設もあったから、まさに国内外の物資の集散地であった。
なお「国府津」という地名は、「国府の近くの港」という意味であり、諸国に存在したものである。相模国の国府津なら、付近に国府があったはずである。しかし相模国の国府はどこであったのか、実はまだ確定していないのである。
真楽寺は聖徳太子の開創という。平安時代以降は天台宗となり、鎌倉時代の安貞2年(1228)、時の住職の性順が相模国を布教中の親鸞に帰依して浄土真宗に改めたという。
神奈川と親鸞 前編65回
神奈川と親鸞 第六十五回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
光福寺と隆寛⑶─流罪の途中で飯山に留まる─
嘉禄3年(1227)6月、延暦寺の僧たちが東山の法然の墓を暴こうとした。しかし六波羅探題の北条時氏に阻止され、遺骸は宇都宮頼綱等に守られて二尊院に運ばれている。
翌7月4日、後堀河天皇の綸旨が延暦寺に下された。それには、まず、延暦寺の僧たちは乱暴な行動を止めるようにとあった。続いて専修念仏者の隆寛を陸奥国に、空阿を薩摩国に、成覚を壱岐国に流すと記されていた。こうして80歳の隆寛は陸奥国に向かった。
当時、流罪は本人が勝手に流罪地に行くのではない。必ず護送役が連れて行くのである。流刑地への道も分からない者が一人で行けるはずもないし、受け入れ先の国の国府でも、いきなり流人が現われても戸惑うばかりである。護送役が書類等持参の上、送り届けるのである。その護送役を領送使といった。主に検非違使の者がその役に当たった。
隆寛を連れて行く領送使は、毛利季光という武士であった。彼は鎌倉幕府の政所の別当(長官)大江広元の息子であった。季光は当時26歳、護送中に隆寛の説く専修念仏の教えに感動し、すっかり隆寛に帰依するに至った。その感動のあまり、自分の領地が相模国の毛利荘にあったので隆寛にそこに留まってもらうことにしたのである。
ところで陸奥国へ流すという綸旨は無視することはできない。そこで代わりに隆寛の門弟実成房が陸奥に向かっている。しかし陸奥国府の役人に「隆寛の代わりに来ました」ということはできないし、なんらかの工作はあったのであろう。光福寺の伝えによれば、実成房は隆寛の実子であったという。
高齢の長旅のためか、精神的な疲れからか、隆寛は引き込んだ風邪がもとでその年の12月13日に亡くなった。終焉の地は厚木市飯山・光福寺の地であったとされている。同寺境内に隆寛の墓所が現存し、新らしい物であるが隆寛坐像も同寺本堂に安置されている。
ちなみに、流罪の親鸞も一人で雪の中をよろよろ歩いて越後国に向かったのではなく、領送使が安全に送り届けたのであることを再確認しておきたい。
神奈川と親鸞 前編64回
神奈川と親鸞 第六十四回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
光福寺と隆寛⑵─嘉禄の法難のはじまり─
厚木市飯山・光福寺に墓所のある隆寛は、延暦寺の専修念仏者への弾圧である嘉禄の法難の始まりを作った一人である。
嘉禄元年(1225)、上野国から延暦寺にやってきた定照という学僧が『弾選択』(だんせんじゃく)という文書を作り、それを京都東山の長楽寺に住んで専修念仏を説いている隆寛に送りつけた。
「弾選択」というのは、「法然の『選択本願念仏集』の説くところが間違いであると強く非難する」と言う意味である。定照は延暦寺の中で竪者(りっしゃ)という役職にいた。竪者とは、延暦寺や興福寺の問答形式の法会で、質問に答えて正しく教義を説明する役職である。延暦寺は天台宗の本山であるから、竪者は天台教義に関する重大な責任ある役職ということになる。『弾選択』はその役職の者が専修念仏を公式に非難した文書ということである。
隆寛は強く憤慨し、翌年の嘉禄2年、『顕選択』を書いて『弾選択』に答えた。『選択本願念仏集』がいかに正しいかを主張したのである。この中で隆寛は定照に手ひどく悪口を浴びせ、
汝の僻破(へきは)の中(あた)らざることは、暗天の飛礫(ひれき)の如し。
「貴公の下手な非難は的外れで当たっていない。まるで暗闇で飛ばすつぶてのようなものだ」と嘲ったのである。隆寛はこの時すでに八十歳になっており、かなり性格の激しい人物であった。ふだんから専修念仏者たちに勢いを苦々しく思っていた延暦寺の僧たちは、これを聞いてかんかんに怒ったという。
嘉禄3年(1227)6月、延暦寺を構成する東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)という3地域の僧侶が集合し、「専修念仏を停廃すべし」止めさせようと決議したのが嘉禄の法難のはじまりである。
神奈川と親鸞 前編63回
神奈川と親鸞 第六十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
光福寺と隆寛⑴─親鸞の法兄─
親鸞は60歳で帰京した。その後、年未詳2月3日付で常陸の門弟に送った手紙に、
京にも、一念多念なんどまふす、あらそふことのおほくてさふらふやうにあること、
さらさらさふらふべからず。ただ詮ずるところは、唯信抄、後世物語、自力他力、
この御文どもをよくよくつねにみて、その御こころにたがへずおはしますべし。
「京都でも、「念仏は心をこめてただ1回称えれば極楽往生できる」、「いやできるだけ多くの回数を称えなければ往生できない」という争いが多いのです。これはまったくあってはならないことです。結局のところ、『唯信抄』『後世物語(後世物語聞書)』『自力他力(自力他力分別事)』をふだんからよく読んで、その意としている精神に違うことなくしておいでください」という文がある。
この中で、『唯信抄』は親鸞の法兄聖覚の著で、『後世物語聞書』と『自力他力分別事』はもう一人の法兄の隆寛の著である。親鸞は隆寛を尊敬しており、関東の門弟たちにも隆寛の名は知られていたのである。その隆寛は厚木の地で亡くなり、墓所が厚木市飯山・光福寺にある。光福寺には隆寛坐像も安置されている。
隆寛は久安4年(1148)の生まれ、親鸞より25歳の年上である。父は少納言藤原資隆、叔父の皇円は法然の師匠、息子の聖増は慈円の門弟である。
隆寛は出家して皇円の法兄範源の教えを受け、やがて慈円のもとで天台教学を学んだ。後に法然の門に入って専修念仏を学び、1日に三万五千遍の念仏を称えるようになった、そして終には八万四千編を日課とした。元久元年(1204)、法然から『選択本願念仏集』の閲覧・書写を許されている。隆寛はその時57歳、法然にあつく信頼されていた。
隆寛は日常の念仏を重んじていて、毎日数万遍の念仏を称えることで臨終に確かに極楽往生できると説いた。いわゆる多念義である。彼は京都東山の長楽寺に住んだので、その教義は長楽寺義とも呼ばれた。
神奈川と親鸞 前編62回
神奈川と親鸞 第六十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑺─現代社会の観点から─
大谷大学編『真宗年表』(法蔵館、1973年)を基にして調べると、親鸞82歳から86歳までの5年間に自筆の書物全体の81%が書かれている(書状を除く)。そしてその間の83歳から85歳までの3年間に、なんと全体の62%が書かれているのである。これは、なぜか。それは善鸞の問題に心を痛めたからであるという見方が、善鸞義絶があった、なかった、という両方の意見の人たちでほぼ一致している。この時期はちょうど善鸞問題があった時期である。
善鸞が関東へ行って念仏の問題を鎮められず、かえって騒ぎを大きくしたことは事実だったようである。親鸞は息子が期待した成果を上げてくれなかったことに対し、自分の指導が足りなかったのではないかと悩んだ。親しかるべき息子さえ説得できなかった自分の信仰とは何であったのかと悩み、若いころからの信仰を振り返った。その際、かつて書いた文章をもう一度書き、また思うところを新たに書いて信仰を確認した。その結果が多数の自筆本執筆となったのであろう、ということである。
すると、現代にこのように多数の親鸞自筆本が遺ってするのは誰のおかげか。むろん親鸞のおかげであるけれども、善鸞がいなければそれらは存在しなかったのではないか。なんと現代の私たちにとって息子善鸞はありがたい存在と見直すべきではないか、ということなのである。
また善鸞は、本願寺教団でいえば、親鸞に続く第二世如信をこの世に生み出してくれた人物である。善鸞がいなければ如信はいなかったのである。
現代は子どもは宝、大切にしようとする意識が高まっている時代である。その観点からも善鸞問題を見直すべきである。親と子は、いつもにっこり笑顔でいるだけが望ましい関係ではない。親鸞と善鸞は多大な遺産を現代の日本、そして世界に遺してくれたのである。それは親子の葛藤の中から生まれたものであった。
神奈川と親鸞 前編61回
神奈川と親鸞 第六十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑹─親鸞の親子観─
親鸞が善鸞を義絶したのは83、4歳のころとされてきた。義絶とは親が親子の縁を切ることであるから、父親が息子を捨てるということである。親鸞においてそのようなことがあり得たであろうか。
親鸞には聖徳太子を讃える「聖徳太子和讃」がある。『皇太子聖徳奉讃』75首、同名の『皇太子所得奉讃』11首、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』114首である。うち、全11首の方の『聖徳太子奉讃』は親鸞88歳の時の作といわれている。
その中の第2首に次の和讃がある。
救世観音大菩薩 聖徳皇と示現して
多々のごとくすてずして 阿摩のごとくにそひたまふ
「救世観音は聖徳太子の姿をとってこの世に現われ、お父さんのように私たちを捨てないで、お母さんのように私たちに寄り添ってくださる」。
「多々」とはサンスクリット語で「父」のこと、「阿摩」の同じくサンスクリット語の「母」のことである。ただ、「多々」「阿摩」というやさしい音からは「お父ちゃん」「お母ちゃん」を思わせる。
親鸞は9歳の時に出家した。父の政治的失敗という理由はともかく、親鸞自身としては「父に捨てられた」と思い、「母が一緒にいてくれない」と一人泣く夜もあったのではないだろうか。父は子どもを捨ててはいけないのである。このように説く親鸞が、その4年ほど前に息子善鸞を捨てていただろうか。
なお、いわゆる「善鸞義絶状」は大正年間に発見されたもので、写本である。親鸞の真筆ではない。偽文書ではないかという意見が強くある。また門弟の性信に義絶を知らせたという「義絶通告状」は室町時代の出版物で初めて世に現われたものである(版本)。こちらも真筆はない。