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法然聖人とその門弟の教学 第7回

法然聖人とその門弟の教学
第7回 「善導大師の六字釈」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 「南無阿弥陀仏」の六字について解釈することを六字釈といいます。中国浄土教の大成者である善導大師は、南無阿弥陀仏について「南無」と「阿弥陀仏」とに分け、「南無」とは「帰命」「発願回向」であり、「阿弥陀仏」とは「即是其行」であると解釈されました。
 南無阿弥陀仏の南無は梵語の音写語で、中国語では帰命と訳されます。帰命とは、心から信じ敬うという意味です。また、発願回向とは、浄土往生の願いを発して回向することをいいます。そして、善導大師が阿弥陀仏とは、「すなはちこれその行なり(即是其行)」と解釈されたのは、阿弥陀仏そのものの行を表したものだからです。つまり、阿弥陀仏は単なる仏名だけではなく、衆生を浄土に往生させるはたらきを意味しているのです。
 このように善導大師は、南無阿弥陀仏の六字には、衆生が浄土に往生するために必要な願と行とが具わっていることを主張されました。衆生が往生のために必要な願と行とが具わっていることを、「願行具足」といいます。
 善導大師が願行具足の念仏を主張された背景には、摂論宗の学者による別時意(別時意趣)の批判がありました。別時意とは、無着菩薩の『摂大乗論』に説かれた仏の方便説の一つで、長い間修行を積み重ねていかなければ往生を得ることができないのに、わずかな善根によって、すぐに往生ができるかのように説くことをいいます。つまり、遠い未来の別時に得る結果を、即時に得られるかのように説くことから別時意というのです。
 この『摂大乗論』の別時意説を、摂論宗の学者は『観無量寿経』下品下生に説かれている念仏往生の教えに適用させ、この念仏を別時意であるとし、すぐに往生できるような行ではないとしました。したがって、念仏には往生しようとする願はあるけれども、すぐに往生できる行ではない(唯願無行)と主張したのです。これに対して反論した教説が、善導大師の六字釈でした。
 この善導大師の六字釈に注目し、引用されたのが法然聖人です。法然聖人が引用された意図とは、願行具足を言うのではなく、六字釈を通して、念仏とは「不回向」の行であることを論証しようとすることにありました。雑行は特別に回向しなければ往生の行にはならないけれども、念仏は阿弥陀仏の本願の行(阿弥陀仏そのものの行)であるから、衆生が回向する必要はなく、自然に往生の業となることを述べるために、六字釈を引用されたのです。なぜならば、「南無阿弥陀仏」の六字の名号そのものに、回向のはたらきがあるからです。これを衆生の側から見て、「不回向」というのです。

法然聖人とその門弟の教学 第6回

法然聖人とその門弟の教学
第6回 「不回向と回向」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄 

 法然聖人は、「正行(正定業と助業)を修めると、阿弥陀仏と親しくなり、阿弥陀仏は近くに来ておられ、阿弥陀仏への思いはとぎれず、往生のために回向する必要がなく、専修の行であるから純である」と述べられています。この中の「往生のために回向する必要がない」とは、どのような意味でしょうか。
 回向とは自ら修めた善根功徳を、自らのさとりのためにふりむけたり、他者を救うために施し与えたりすることをいいます。この回向が必要ないというのです。それはなぜでしょうか。法然聖人は、不回向と回向とを比較して、次のように述べられています。

  不回向回向対といふは、正助二行を修するものは、たとひ別に回向を用ゐざれども
  自然に往生の業となる。(『選択本願念仏集』)

 この文は、「正定業である称名と助業との二つの行業を含む正行を修める者は、たとい特別に往生のためにその行をふりむけようとしなくても、おのずから正行が往生の業となる」という意味です。正行とは阿弥陀仏と関わりのある行をいいました。いかに阿弥陀仏の本願のはたらき(他力)が強調されているかがわかります。
 阿弥陀仏の本願(第十八願)に衆生が往生するための行として誓われているのは、称名念仏の一行です。つまり称名念仏とは、すでに阿弥陀仏の本願によって往生の行として選び定められたものですから、称名することでそのまま往生の業となり、衆生の側からは往生のために回向する必要はないということになります。このことを「不回向」というのです。
 この不回向の義と弥陀回向の義とを同義として受け継がれているのが親鸞聖人です。

  聖言・論説、ことに用ゐて知んぬ、凡夫回向の行にあらず、
  これ大悲回向の行なるがゆゑに不回向と名づく。(『浄土文類聚鈔』)

  真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば
    不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(『正像末和讃』)

 このように親鸞聖人は称名念仏を、「釈尊の言葉や祖師の論書によって、凡夫は自らの力で善根を修め、さとりを開こうとするのではなく、阿弥陀仏の大いなる慈悲から回向された行(弥陀回向の法)である」として、この阿弥陀仏からの回向を「不回向という」と述べられています。
 ただし法然聖人は、「雑行を修するものは、かならず回向を用ゐる時に往生の因となる」とも述べており、雑行を回向の行であると捉えられています。

神奈川と親鸞 前編73回

神奈川と親鸞 第七十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
三浦市白石の最福寺

 三浦市白石の最福寺は、寺伝によれば、もと鎌倉に建てられたと伝えられている。寺の開基は桑田永教という人物で京都丹波出身であった。幼い時に比叡山延暦寺で出家した。その後、比叡山での修行を終えてから鎌倉に移った。それは建久年間(1190〜1199)のことだったという。寛喜2年(1230)には天台宗の寺院を建立し、さらにその後に親鸞の門に入ったと伝えられている。その寺院の名称は不明である。
 戦国時代の天文元年(1532)、寺は戦乱の中で鎌倉から三浦半島南部の西の浜に移り、西福寺と称するようになった。
 江戸時代になると漁業に従事する人たちの人口が急激に増えたので、漁港近くにあった西福寺は移転せざるを得なくなった。その結果、現在の三浦市白石の地に移った。元禄10年(1697)のことであった。寺名も最福寺と改めて現在に至っている。
 上述のように西福寺はもと鎌倉にあった。しかし考えてみると、浄土真宗の歴史では親鸞と鎌倉との親しさを示す話は避けられてきた。特に、親鸞が幕府の執権北条泰時に一切経校合を依頼され、引き受けた話は無視されてきた。それは覚如の作り話だろうというわけである。民衆の味方親鸞は権力者に協力するはずはないという意識が、つい近年まで底流にあった。民衆の味方親鸞は権力者と戦ったはずだというのである。
 しかし、歴史を民衆と権力者の戦いと見る考え方はすでに過去のものとなった。そもそも親鸞が信奉した阿弥陀如来は、その慈悲によりすべての人々を救うはずである。権力者はその救いから漏れるのであろうか? 親鸞自身、越後流罪では「権力者」の越後権介日野宗業に助けられ、関東の稲田では「権力者」の大豪族宇都宮頼綱の保護を受けていたのである。そろそろ鎌倉そして神奈川県の浄土真宗史を本格的に見直すべきであろう。
 最福寺は100段以上の階段を上った所にある。一歩一歩登っていくのは大変であるが、気持がよく、景色のよい境内である。

 

法然聖人とその門弟の教学 第5回

法然聖人とその門弟の教学
第5回 「正雑二行の得失」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、阿弥陀仏と関わりのない雑行と、阿弥陀仏とその浄土を対象とする往生行である正行とを五項目にわたって対比して、なぜ正行がすぐれているのか(得)、なぜ雑行が劣っているのか(失)を論じています。
 その五項目とは、(1)親疎対、(2)近遠対、(3)有間無間対、(4)回向不回向対、(5)純雑対です。この中、正行は親・近・無間・不回向・純であり、雑行は疎・遠・有間・回向・雑が相当します。
 つまり、正行を修める者とは、阿弥陀仏と親しく、阿弥陀仏がその者の近くに来ておられ、阿弥陀仏に対する思いが間隙すること無く、往生のために回向する必要も無く、専修の行であるから純一であるということです。
 それに対し、雑行を修める者とは、阿弥陀仏と関わりのない行を実践しますから、阿弥陀仏と疎く、阿弥陀仏はその者の遠くにあり、阿弥陀仏に対する思いは途切れ、往生のために回向する必要があって、雑多であることが示されています。
 なぜ正行を修める者が、阿弥陀仏と親しい関係にあると言えるのでしょうか。法然聖人はその根拠を、善導大師の次の文に求められています。
  
  衆生行を起して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。
  身につねに仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまふ。
  心つねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。
  衆生仏を憶念すれば、仏また衆生を憶念したまふ。
  彼此の三業あひ捨離せず。ゆゑに親縁と名づく。(『観経疏』「定善義」)

 この文は、「衆生が行を起して、いつも口に阿弥陀仏の名を称えるならば、阿弥陀仏は衆生の称名を聞いておられます。いつも身に阿弥陀仏を敬い礼拝するならば、阿弥陀仏は衆生の礼拝を見ておられます。いつも心に阿弥陀仏を念ずるならば、阿弥陀仏は衆生の念を知っておられます。衆生が阿弥陀仏を思い続けるならば、阿弥陀仏もまた衆生を思い続けられます。ですから、阿弥陀仏(彼)の三業(身・口・意)と衆生(此)の三業とは、互いに離れることがありませんので、親しい関係(親縁)であるといいます」と述べられています。
 つまり、衆生が阿弥陀仏を称・礼・念すれば、阿弥陀仏は衆生を聞・見・知されることから、常に念仏者と阿弥陀仏は互いに離れることがない親しい関係であるのです。
 ここで注目すべき点は、この文が「衆生行を起して」から始まっていることです。行の起点が衆生にあり、衆生が念仏を称えることによって、阿弥陀仏がその衆生を救うという構造になっています。
 ところが、念仏とは阿弥陀仏から恵まれる行であると見られた親鸞聖人は、この文を引用されていません。

神奈川と親鸞 前編72回

神奈川と親鸞 第七十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
厚木市上落合の長徳寺

阿弥陀如来立像。厚木市上落合・長徳寺

 厚木市上落合の長徳寺は、同じく厚木市の岡田の長徳寺と同名です。今回取り上げた上落合の長徳寺のそもそもの成立については、よく分かっていません。寺伝ではもと真言宗の寺院であったとされています。その後、住職が西香という僧侶であったころ、親鸞に帰依して浄土真宗の寺院になったといいます。それは寛喜二年(1230)であったとされています。この年は親鸞は58歳で、記録に残っている限り、法兄聖覚の『唯信抄』を初めて書写した年です。また後世に寛喜の大飢饉と呼ばれた大変な飢饉のあった年でもあります。この大飢饉は、前後3年は続いた大災害でした。
 長徳寺のその後の展開は明らかではありません。しかし戦国時代末期の天正19年(1591)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼすために大軍をもって攻め寄せて来た時、長徳寺に禁制を与えて保護したことが分かっています。その禁制の内容は、軍勢が長徳寺で乱暴狼藉をすること・長徳寺に放火をすること・長徳寺に勝手な要求をすることを禁止する、などでした。「禁制」とは寺社などの保護・統制を目的として、権力者が禁止事項を書いたものです。寺社の門前などに木札などで書かれて示されることが多くありました。
 また文禄元年(1592)11月の本願寺顕如の没にあたって、長徳寺は銀子4匁5分5厘を献上しています。翌年正月6日、本願寺の坊官下間頼廉は「顕如様往生の志として銀子四匁五分五りん、進上の通り懇ろに申し上げ候。則ち御印書を成され候(顕如の後を継いだ教如が、その印を押した礼状を書かれました)」と丁寧な手紙を送ってきています。長徳寺は有力寺院だったのです。
 ところで長徳寺の本尊阿弥陀如来立像は、放射状の光背を背負う浄土真宗形式の阿弥陀像で、寄木造・像高63センチです。戦国時代の天文4年(1535)に小田原北条氏の家臣であった藤田氏が造立したものです。本年(2017)1月、厚木市の文化財に指定されました。