神奈川と親鸞 前編73回

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神奈川と親鸞 第七十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
三浦市白石の最福寺

 三浦市白石の最福寺は、寺伝によれば、もと鎌倉に建てられたと伝えられている。寺の開基は桑田永教という人物で京都丹波出身であった。幼い時に比叡山延暦寺で出家した。その後、比叡山での修行を終えてから鎌倉に移った。それは建久年間(1190〜1199)のことだったという。寛喜2年(1230)には天台宗の寺院を建立し、さらにその後に親鸞の門に入ったと伝えられている。その寺院の名称は不明である。
 戦国時代の天文元年(1532)、寺は戦乱の中で鎌倉から三浦半島南部の西の浜に移り、西福寺と称するようになった。
 江戸時代になると漁業に従事する人たちの人口が急激に増えたので、漁港近くにあった西福寺は移転せざるを得なくなった。その結果、現在の三浦市白石の地に移った。元禄10年(1697)のことであった。寺名も最福寺と改めて現在に至っている。
 上述のように西福寺はもと鎌倉にあった。しかし考えてみると、浄土真宗の歴史では親鸞と鎌倉との親しさを示す話は避けられてきた。特に、親鸞が幕府の執権北条泰時に一切経校合を依頼され、引き受けた話は無視されてきた。それは覚如の作り話だろうというわけである。民衆の味方親鸞は権力者に協力するはずはないという意識が、つい近年まで底流にあった。民衆の味方親鸞は権力者と戦ったはずだというのである。
 しかし、歴史を民衆と権力者の戦いと見る考え方はすでに過去のものとなった。そもそも親鸞が信奉した阿弥陀如来は、その慈悲によりすべての人々を救うはずである。権力者はその救いから漏れるのであろうか? 親鸞自身、越後流罪では「権力者」の越後権介日野宗業に助けられ、関東の稲田では「権力者」の大豪族宇都宮頼綱の保護を受けていたのである。そろそろ鎌倉そして神奈川県の浄土真宗史を本格的に見直すべきであろう。
 最福寺は100段以上の階段を上った所にある。一歩一歩登っていくのは大変であるが、気持がよく、景色のよい境内である。

 

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