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神奈川と親鸞 前編45回
神奈川と親鸞 第四十五回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
南足柄市の善福寺と了源─曽我兄弟の従兄弟─
南足柄市怒田(ぬた)の善福寺の開基は、大磯町の善福寺と同じく、六老僧の第二である了源である。ただし、大磯町の方では、了源は曽我兄弟の兄である河津十郎祐成の息子河津信之としていたが、南足柄市の方では、曽我兄弟の叔父祐清の子四郎祐光であったとしている。
伊東祐親×─┬─祐清×──四郎祐光(了源)
└─祐泰×─┬十郎祐成×
└五郎時致×
上記の系図中、×印のついている者は殺された人である。祐光も父が殺された後、母の出身の狩野氏に養われた。成人後に鎌倉幕府に出仕し、伊豆国の河津荘をもらって活躍したという。
しかし祐光は一族の多くが殺されるという状況に思うところも多く、とうとう世を捨てて出家した。嘉禄元年(1225)のことであった。後に国府津の勧堂(すすめどう)で念仏の教えを説いていた親鸞の門に入り、善念房了源という名をいただいたという。そして大磯の地に善福寺を建てた。親鸞が相模国で活躍するのは嘉禄3年のころからのようなので、了源もそのころに親鸞の門弟になったと推定される。
延応元年(1239)、了源は南足柄市壗下(まました)に阿弥陀堂を建立した。この阿弥陀堂が南足柄市怒田(ぬた)・善福寺の起こりとされている。
壗下には、戦国時代に大磯の善福寺が移ってきたこともあるという。しかしその末期の永禄4年(1561)にはもとの大磯に戻った。壗下の善福寺は、その後、近くの酒匂川の氾濫を避けて近くの高台に移った。それが現在の怒田の地である。
なお、親鸞の門弟としての「六老僧」は、覚如が定めたと考えられる「二十四輩」(『改邪鈔(がいじゃしょう)』)より後で作られた概念と推定される。
神奈川と親鸞 前編44回
神奈川と親鸞 第四十四回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
最初の親鸞坐像─千葉県常敬寺像─
千葉県の最北端である野田市関宿(せきやど)に、浄土真宗本願寺派の常敬寺がある。この寺に安置される親鸞坐像は、鎌倉時代後期造立と推定される優品である。顔は大きく、その輪郭は四角、眉間が高くて目は大きく、口は左右に力強く張っている。帽子(もうす)はなく、両手は、これ以上はないというくらい力を込めて合掌している。
本像が親鸞坐像であると聞くと、ほとんどの人が「えっ」と驚く。本連載の前回(第四十三回)に述べたように、従来説かれてきた親鸞像とはあまりに印象が異なるからである。しかし、本像は最初の親鸞坐像と考えられるのである。
親鸞が亡くなったのは弘長2年(1262)であった。10年後の文永9年、娘覚信尼はその墓所を自分の住所に移して廟堂を建て、遺骨を安置した。少し後のようであるが、その廟堂に親鸞坐像を安置した。ただし、敷地はもともと覚信尼の夫小野宮禅念のものであった。廟堂も東国の門弟が資金を出し合って建てた。そこに安置された親鸞坐像も同様であったろう。すなわち、『親鸞伝絵』初稿本(専修寺本系統)に示される最初の親鸞坐像は、東国門弟の記憶に残る尊敬すべき親鸞の姿であったろう。それは合掌する姿であった。
やがて敷地の所有権は禅念から覚信尼、そして東国門弟へと移った。廟堂は覚信尼が管理権を門弟の了承を得て獲得、その権利は覚信尼の長男覚恵に譲られた。これに不満な覚恵の異父弟で禅念を父とする唯善は、母の没後に兄たちに異議を申立て、その争いは長い間続いた。
結局、争いは唯善の敗北に終わり、唯善は廟堂の親鸞坐像と親鸞の遺骨を持って鎌倉の常葉に移ったと『存覚一期記(ぞんかく・いちごき)』は伝えている。延慶2年(1309)のことであった。やがて唯善は下総国関宿に移って寺院を建て、親鸞坐像を安置した。それが常敬寺に伝えられてきたのである。東国ではこの坐像を手本にして何体もの親鸞坐像が造立されたと推定される。神奈川県大磯町・善福寺の親鸞坐像も、その一例である。
神奈川と親鸞 前編43回
神奈川と親鸞 第四十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
六老僧了源と善福寺⑸─親鸞聖人坐像─
大磯町の善福寺には「親鸞聖人坐像」が安置されている。この像は木造で、鎌倉時代後期の作と推定される優れた彫像である。「木造伝了源坐像」の名称で国指定重要文化財に登録されている。つまり、国の文化財調査の時点では善福寺開基の了源の像であろうと推定され、手続きが進められたのである。理由は恐らく、第一に本像の面貌(顔)が一般的によく知られた親鸞の面貌とは異なるということであろう。
親鸞の面貌といえば、「安城(あんじょう)の御影(ごえい)」(西本願寺蔵)に典型的に見られるように、額に深く皺(しわ)がより、口が小さい。美術史の観点からこれを「親鸞顔」というと、美術史研究者から聞いたことがある。その面貌は、善福寺像ではかなり異なる。善福寺像の面貌は壮年の様子を示していて皺は浅く、口も小さくない。
第二に、善福寺像では合掌しており、念珠(浄土真宗では、数珠を念珠と称している)を持っておらず、首に帽子(もうす。実は頭にかぶる頭巾)も巻いていない。
これも「安城の御影」に描かれているように、親鸞像は帽子を巻き、両手に念珠を持つものと思われてきた。「安城の御影」は親鸞83歳の時に法眼朝円(ほうげん・ちょうえん)が描き、親鸞が自ら銘文を書きこんだものである。
善福寺像のような、上記第一・第二の特色を持つ像は、関東の浄土真宗寺院には数点以上残されている。しかし長い間、この姿の像は親鸞像ではなく、開基像ではないかとされてきた。親鸞像でもないのに尊重され続けて来たので、そのように判断することが妥当とされたのであろう。善福寺像もその一つと推定される。
しかし一方、善福寺では親鸞坐像であるとも言い伝えてきた。そしてそれが本来の姿であったと考えられる。なぜなら親鸞坐像のもっとも古い作例は、京都東山に東国の門弟たちによって建立された親鸞廟に安置された親鸞坐像で、それは合掌像だからである。善福寺像はその影響下に造立されたと推定されるのである。次回にはそのことを見ていきたい。
神奈川と親鸞 前編42回
神奈川と親鸞 第四十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
六老僧了源と善福寺⑷─親鸞書状の平塚入道─
親鸞の建長4年(1252)2月24日付の書状の中に、次の文がある。
ひらつかの入道殿の御往生のこと、ききさふらふこそ、かへすがへすまふすに
かぎりなくおぼえさふらへ。めでたさ、まふしつくすべくもさふらはず。
をのをの、みな往生は一定(いちじょう)とおぼすめすべし。
「平塚の入道殿が極楽往生をされたとお聞きしましたことは、ほんとうにいくらお祝いしてもお祝いしきれないように思います。このおめでたさは、言葉で表現しきれるものではありません。皆さん、極楽往生は必ずかなうとお思い下さい」。
文中の「ひらつか入道」が大磯町・善福寺開基の了源のことと推定されている。またこの文章の前には、
明法御房の往生のこと、をどろきまふすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく
さふらふ。鹿嶋・なめたか・奥郡(おうぐん)、かやうの往生ねがはせたまふひとびと
の、みなの御よろこびにてさふらふ。
「明法殿(もと山伏弁円)が極楽往生されたとのこと、いまさら驚くことではありませんが、ほんとうにうれしいです。これは、常陸国鹿島郡・同じく行方(なめかた)郡・奥郡(常陸国北部地方)の、このような極楽往生を願っておられる人たち皆の喜びです」とあり、親鸞は明法をしきりに褒めている。明法は念仏の行者として、親鸞としても非常に尊敬できる人物であった。そして親鸞は、明法と並べて了源も褒めているのである。この書状から、了源は建長4年またはその前年に亡くなったと推定される。
ちなみに、相模国の地名としての「平塚」の初見は、『吾妻鏡』建久3年(1192)8月9日条の記事である。源頼朝の妻の北条政子が産気づいたので、相模国の神社仏閣に安産を祈らせたとする記事の中に、「範隆寺【平塚】」、「黒部宮【平塚】」とあるものである。
(【】内は『吾妻鏡』本文中の注)
神奈川と親鸞 前編41回
神奈川と親鸞 第四十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
六老僧了源と善福寺⑶─了源の出家と親鸞への入門─
大磯町高麗の善福寺の開基である了源は、寺伝によれば、親鸞の親しい門弟として知られた平塚入道である。前回に述べたように、父は曽我兄弟の仇討で知られた曽我十郎祐成、母は虎という名の大磯の遊女であったという。その虎から仇討事件後に誕生したのが了源で、幼名は祐若であった。
祐若は、やがて成人して河津三郎信之と名のって鎌倉幕府に仕え、建保元年(1213)の和田義盛の乱で手柄を立てて将軍源実朝から平塚荘をもらった。親鸞が関東へ来る前の年である。
祐若改め信之はさらに活躍したが、まもなく出家の思いを強く抱くようになった。そのことを『大谷遺跡録』の「竜頭山善福寺記」に次のように記してある。
信之熟(つらつら)往事を思ふに、父祖三世天然年を尽さず命を失ふ。
彼らが菩提は如何して求んと。而るに元仁元年甲申年平義時卒す。
爰にして信之厭離(おんり)の心荐(しきり)にして、則(すなわち)
薙髪(ちはつ)して戒を受、平塚の了源と改む。
「信之はいろいろと昔のことを考えてみると、曾祖父祐親・祖父祐泰・父祐成と三代にわたって天寿を全うせずに命を失っています。どのようにすれば彼らに極楽往生をさせられるでしょうか。このように思っているうちに、元仁元年(1224)、幕府の執権北条義時が亡くなりました。それを機に、信之にはこの世を捨てたいという気持がしきりに涌き起こりました。そこで髪を剃って出家・受戒し、平塚の了源と名を改めました」。
実際、曾祖父・祖父・父は殺されている。他にも近い親族で多くの者が殺されている。この時代の習いとはいえ、信之は殺された者の後生を案ぜざるを得なかったのである。
元仁元年といえば、親鸞は52歳、『教行信証』を著わした年である。親鸞が相模国に姿を現わすのは55、6歳であるから、了源はやがて親鸞の門に入ったということであろう。