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神奈川と親鸞 前編20回
神奈川と親鸞 第20回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑺ 鎌倉幕府と念仏者―式目追加から―
鎌倉時代に関する年表を見ていくと、朝廷や幕府が「念仏禁止令」「専修念仏禁止令」を出しているとする表現に出会う。いかにも朝廷や幕府が念仏を危険視し、嫌っているような表現である。
しかし実際のところ、貴族や武士たちは念仏を嫌ってはいない。それどころか、ほとんどの貴族や武士は次の世での極楽往生を強く願っていた。それは貴族の日記やいろいろな文学作品を見れば明らかである。関白九条兼実が法然に帰依して極楽を願ったのは有名であるし、その弟で法然を嫌っていた天台座主(天台宗と延暦寺のトップ)の慈円も、極楽浄土を願っていた。
ちなみに薬師如来や社会如来、大日如来等、無数に存在する如来(仏)はすべてそれぞれ独自の浄土を持ち、それぞれの名称をもっていた。「極楽」浄土というのは阿弥陀如来(仏)だけの浄土である。
鎌倉幕府に集う武士とて来世は極楽往生を願っていた。ではなぜ「念仏禁止令」といった表現になってしまっているのか。まず鎌倉幕府では念仏に関してどのような法律を出しているのか見てみよう。幕府の基本法典である貞永元年(1232)に発布された『御成敗式目(貞永式目)』には「念仏」という文言はない。そしてその後、折にふれて出された法律(追加法)の中にはそれが見られる。三年後の文暦2年(1235)7月14日に発せられた追加法に次のようにある。
一、念仏者の事
道心堅固の輩に於いては異儀に及ばず。しかしながら、魚魚を喰らひ、女人を招き寄せ、
或ひは党類を結び、酒宴を恣に好むの由、遍へに聞へ有り。
糾弾されるべきは僧侶にあるまじき行ないをしている念仏者のことで、念仏そのものを問題視しているのではない。「道心堅固の輩に於いては異儀に及ばず(しっかりした気持で念仏修行している者は、まったく問題はありません)」と幕府は宣言している。
神奈川と親鸞 前編19回
神奈川と親鸞 第19回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑹ 隆寛➁―相模飯山にて没―
嘉禄元年(1225)、延暦寺の学僧である定照が『弾選択』という文章を作り、京都で明らかにしました。法然の『選択本願念仏集』を非難したのです。翌年、隆寛は『顕選択』を書いて『弾選択』に答えました。この中で隆寛は手ひどく定照を罵り、
汝の僻破の中らざる事は、暗天の飛礫の如し。
「貴公の下手な非難は的外れで当たっていない。まるで暗闇に飛ばすつぶてのようなものだ」と嘲った。隆寛は法然門下の理論的指導者として知られており、『弥陀本願義』『別辞念仏私記』『一念多念分別事』『自力他力事』等の著書もある。
しかし『弾選択』への対応が大きな原因の一つになって、嘉禄3年(1227)に専修念仏者たちは弾圧され(嘉禄の法難)、隆寛も奥州へ流されることになった。流罪に遭ったものは、他に空阿(薩摩国)と成覚(壱岐国)がいた。
隆寛を京都から奥州へ護送する役(領送使。通称は追立て使)となったのが毛利季光という武士であった。彼は鎌倉幕府の政所の別当(長官)大江広元の息子である。広元は事務官僚として幕府に仕えた多くの貴族たちの統領的立場にあった。季光はその四男で建仁2年(1202)の生まれ、源実朝に仕えていたが、その暗殺後出家して西阿と名のっていた。彼は毛利荘(厚木市付近)を領地としていて、後に評定衆の一員となり、またその娘は執権北条時頼の正室となるなど幕府内の有力者であった。
季光は護送中にすっかり隆寛に帰依するに至った。そして自分の屋敷が毛利荘の飯山にあったので、高齢の隆寛を自宅に留まらせ、代わりに隆寛の門弟実成が奥州に向かった。
しかし、老齢のためか流罪の旅の疲れからか、引き込んだ風邪がもとで年末に亡くなった。この間、親鸞が隆寛を訪ねた可能性があろうと私は考えている。終焉の地は厚木市飯山の光福寺であったとされ、同寺境内に隆寛の墓所がある。また光福寺の伝えでは、隆寛の代わりに奥州へ向かった実成は隆寛の実子であったという。
神奈川と親鸞 前編18回
神奈川と親鸞 第18回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑹ 隆寛➀―法然の門弟―
親鸞が敬意を表していた兄弟子に、前回で取り上げた聖覚の他に隆寛がいる。隆寛の父は少納言藤原資隆で、隆寛はもともと天台僧である。幼いときに比叡山に登って出家した。親鸞より25歳の年上であり、元久2年(1205)には権律師に任ぜられている。法然の教えも受けていて、前年の元久元年には『選択本願念仏集』の書写を許されている。
法然の門弟の間では、その生前も没後も、一念義と多念義の争いが続いていた。一念義というのは、極楽浄土への往生は信心ひとつで決定する、あるいは一声の念仏で決定するとする考えである。多念義とは、一生の間数多くの念仏を称え続け、臨終に極楽往生が決定するという考えである。隆寛は、はじめ1日に三万五千遍の念仏を称え、遂には八万四千遍を日課とするようになっている。多念義である。彼は京都・長楽寺に本拠を置いたので、その系統は長楽寺流と呼ばれている。
しかし隆寛は、一念義の人たちと多念義の人たちとが論争を繰り返すことを好んではいなかった。彼は『一念多念分別事』を著わし、どちらかに執着して言い争ってはならないと誡めている。
親鸞は『一念多念分別事』をもとにして『一念多念文意』を著わし、隆寛同様に一方に執着するのはよくないと説き、最後を次の文で結んでいる。
浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり。またく一念往生・多念往生とまふすことなし。
「浄土真宗の習わしでは、「念仏往生」というのです。まったく、「一念往生」あるいは「多念往生」ということはありません」。
嘉禄3年(1227)に起きた法然没後の専修念仏者への弾圧においては、隆寛はもっとも問題がある人物とみなされ、奥州へ流されることになった。途中、神奈川県厚木市飯山に逗留し、そこで没しているのである。
神奈川と親鸞 前編17回
神奈川と親鸞 第17回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑸ 聖覚➁―法然の門弟―
北条政子三回忌の導師を勤めた聖覚の祖父は、後白河天皇を擁して保元の乱(1156年)で勝利を収めた藤原通憲(信西入道)である。通憲は官職は少納言ながら、その後の朝廷で絶大な権力を振るった。しかし平治の乱(1159)で敗死した。そのため18人いた男子はほとんど出家した。その一人の澄憲は、天台宗の僧で法印に昇り、唱導の名手であった。安居院に住んだので、彼の唱導は安居院流と呼ばれた。聖覚も法印の位と僧都の職を得、父の教えを受けてやはり安居院流の唱導の名手となった。また法然の吉水草庵に出入りし、その熱心な門弟でもあった。
ある日の吉水草庵で、入門してまだ日の浅い親鸞が信不退・行不退の問いかけをしたことがある。法然の三百人余りの門弟を集め、信不退(極楽往生のためには信心にもとづく念仏が重要で、念仏の回数は問題ではない)が大切か、行不退(いや、念仏は回数が重要、ずっと称え続けなければならない)が大切かと尋ねたのである(本連載第八回参照)。
この時、門弟たちのほとんどはどちらを選ぶべきか決められなかった。すると、
法印大和尚位聖覚并釈信空【法蓮上人】、信不退の御座に可着と云々。
「聖覚と信空が、「信不退」の席に着きますよ」と発言した。聖覚ははっきりと阿弥陀仏の本願を信じる心が大切だと主張したのである。まもなく親鸞も信不退を選び、法然も「源空も信不退の座につらなり侍るべし」と同様であった。
聖覚は親鸞より6歳年上の兄弟子で、これから十数年後の承久3年(1221)、聖覚は『唯信抄』を著わした。法然が説く本願の念仏を理解するためにはただ信心のみが重要、としたものである。親鸞はこの書物を尊重し書写して門弟に与え、また後年、その解説書である『唯信鈔文意』を著わしている。それは建長元年(1250)のことであった。
なお聖覚の叔父の一人明遍も法然の門弟であった。他方、従兄弟の貞慶は興福寺奏状を書き、法然や親鸞等8人が流罪、4人が死罪となった承元の法難の一原因を作っている。
神奈川と親鸞 前編16回
神奈川と親鸞 第16回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
仲間の念仏者たち⑸ 聖覚➀―北条政子三回忌の導師―
安貞元年(1226)7月11日、北条政子の三回忌供養のため丈六の阿弥陀堂供養が鎌倉で行われた。主催は北条時房であった。「丈六の阿弥陀堂」とは、宇治の平等院鳳凰堂等に安置されている大きさの阿弥陀の大仏(丈六の大きさ)が安置されるべき建物である。
供養の導師は臨済宗の退耕行勇であった。彼は源頼朝や政子の帰依を受けた、当時鎌倉でもっとも有力な僧であった。法要には北条泰時や時房たちが参列した。
二週間後の7月25日、もう一つの政子三回忌法要が行なわれた。主催は二階堂行盛であった。彼は政子の信任があつく、元仁元年(1224)に政所の執事(次官)となったが、翌年に政子が亡くなると出家した。義時没後の執権職争いでは泰時を支持し、評定衆の一員に選ばれて幕政の運営に当たっていた。そのころの事務官僚のトップであった。
行盛は政子供養のために別の寺院を建立し、その落慶法要を行なったのである。導師には聖覚僧都を京都から招いた。聖覚は天台宗の僧侶で、父の澄憲法印譲りの唱導の名手として有名であった。唱導とは説法のことで、聖覚は説法が大変上手だったのである。『吾妻鏡』同日条によれば、聖覚の説法を次のように記している。泰時・時房も参列した。
凡そ表白花を餝り、啓白玉を貫くの間、聴聞の尊卑随喜渇仰、言語の及ぶ所に非ず。
「政子殿への心を込めた供養の言葉は花を飾っているようであり、極楽往生の願いを込めた言葉は宝石を糸で連ねたようでした。それを聞いていた参列者は非常に喜び感動したことは文字で表わすことができません」。この法要は大成功であった。
なぜ幕府は聖覚僧都なる人物を重要な政子三回忌の導師に招いたのであろうか。それはおそらく、聖覚が関東の西の守りともいうべき箱根山に鎮座する箱根権現の支配者だったからであろう。箱根権現は頼朝以来、幕府安全の祈祷を凝らしてもらっていた重要な神社であった。箱根権現を味方につけておかなければ幕府は危ういのである。
興味深いことに、聖覚は法然の有力門弟で、親鸞とも非常に親しい友人であった。