神奈川と親鸞 前編44回

神奈川と親鸞 第四十四回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
最初の親鸞坐像─千葉県常敬寺像─

親鸞聖人坐像。千葉県野田市関宿・常敬寺蔵

親鸞聖人坐像。千葉県野田市関宿・常敬寺蔵

 千葉県の最北端である野田市関宿(せきやど)に、浄土真宗本願寺派の常敬寺がある。この寺に安置される親鸞坐像は、鎌倉時代後期造立と推定される優品である。顔は大きく、その輪郭は四角、眉間が高くて目は大きく、口は左右に力強く張っている。帽子(もうす)はなく、両手は、これ以上はないというくらい力を込めて合掌している。
 本像が親鸞坐像であると聞くと、ほとんどの人が「えっ」と驚く。本連載の前回(第四十三回)に述べたように、従来説かれてきた親鸞像とはあまりに印象が異なるからである。しかし、本像は最初の親鸞坐像と考えられるのである。
 親鸞が亡くなったのは弘長2年(1262)であった。10年後の文永9年、娘覚信尼はその墓所を自分の住所に移して廟堂を建て、遺骨を安置した。少し後のようであるが、その廟堂に親鸞坐像を安置した。ただし、敷地はもともと覚信尼の夫小野宮禅念のものであった。廟堂も東国の門弟が資金を出し合って建てた。そこに安置された親鸞坐像も同様であったろう。すなわち、『親鸞伝絵』初稿本(専修寺本系統)に示される最初の親鸞坐像は、東国門弟の記憶に残る尊敬すべき親鸞の姿であったろう。それは合掌する姿であった。
 やがて敷地の所有権は禅念から覚信尼、そして東国門弟へと移った。廟堂は覚信尼が管理権を門弟の了承を得て獲得、その権利は覚信尼の長男覚恵に譲られた。これに不満な覚恵の異父弟で禅念を父とする唯善は、母の没後に兄たちに異議を申立て、その争いは長い間続いた。
 結局、争いは唯善の敗北に終わり、唯善は廟堂の親鸞坐像と親鸞の遺骨を持って鎌倉の常葉に移ったと『存覚一期記(ぞんかく・いちごき)』は伝えている。延慶2年(1309)のことであった。やがて唯善は下総国関宿に移って寺院を建て、親鸞坐像を安置した。それが常敬寺に伝えられてきたのである。東国ではこの坐像を手本にして何体もの親鸞坐像が造立されたと推定される。神奈川県大磯町・善福寺の親鸞坐像も、その一例である。

神奈川と親鸞 前編43回

神奈川と親鸞 第四十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
 六老僧了源と善福寺⑸─親鸞聖人坐像─
 

親鸞聖人坐像。大磯町高麗・善福寺蔵

親鸞聖人坐像。大磯町高麗・善福寺蔵

 大磯町の善福寺には「親鸞聖人坐像」が安置されている。この像は木造で、鎌倉時代後期の作と推定される優れた彫像である。「木造伝了源坐像」の名称で国指定重要文化財に登録されている。つまり、国の文化財調査の時点では善福寺開基の了源の像であろうと推定され、手続きが進められたのである。理由は恐らく、第一に本像の面貌(顔)が一般的によく知られた親鸞の面貌とは異なるということであろう。
 親鸞の面貌といえば、「安城(あんじょう)の御影(ごえい)」(西本願寺蔵)に典型的に見られるように、額に深く皺(しわ)がより、口が小さい。美術史の観点からこれを「親鸞顔」というと、美術史研究者から聞いたことがある。その面貌は、善福寺像ではかなり異なる。善福寺像の面貌は壮年の様子を示していて皺は浅く、口も小さくない。
 第二に、善福寺像では合掌しており、念珠(浄土真宗では、数珠を念珠と称している)を持っておらず、首に帽子(もうす。実は頭にかぶる頭巾)も巻いていない。
 これも「安城の御影」に描かれているように、親鸞像は帽子を巻き、両手に念珠を持つものと思われてきた。「安城の御影」は親鸞83歳の時に法眼朝円(ほうげん・ちょうえん)が描き、親鸞が自ら銘文を書きこんだものである。
 善福寺像のような、上記第一・第二の特色を持つ像は、関東の浄土真宗寺院には数点以上残されている。しかし長い間、この姿の像は親鸞像ではなく、開基像ではないかとされてきた。親鸞像でもないのに尊重され続けて来たので、そのように判断することが妥当とされたのであろう。善福寺像もその一つと推定される。
 しかし一方、善福寺では親鸞坐像であるとも言い伝えてきた。そしてそれが本来の姿であったと考えられる。なぜなら親鸞坐像のもっとも古い作例は、京都東山に東国の門弟たちによって建立された親鸞廟に安置された親鸞坐像で、それは合掌像だからである。善福寺像はその影響下に造立されたと推定されるのである。次回にはそのことを見ていきたい。

神奈川と親鸞 前編42回

神奈川と親鸞 第四十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
六老僧了源と善福寺⑷─親鸞書状の平塚入道─

歌川広重(初代)「東海道五十三次之図」のうち、「平塚馬入川舟渡しの図」

歌川広重(初代)「東海道五十三次之図」のうち、「平塚馬入川舟渡しの図」

 親鸞の建長4年(1252)2月24日付の書状の中に、次の文がある。
  ひらつかの入道殿の御往生のこと、ききさふらふこそ、かへすがへすまふすに
  かぎりなくおぼえさふらへ。めでたさ、まふしつくすべくもさふらはず。
  をのをの、みな往生は一定(いちじょう)とおぼすめすべし。
「平塚の入道殿が極楽往生をされたとお聞きしましたことは、ほんとうにいくらお祝いしてもお祝いしきれないように思います。このおめでたさは、言葉で表現しきれるものではありません。皆さん、極楽往生は必ずかなうとお思い下さい」。
 文中の「ひらつか入道」が大磯町・善福寺開基の了源のことと推定されている。またこの文章の前には、
  明法御房の往生のこと、をどろきまふすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく
  さふらふ。鹿嶋・なめたか・奥郡(おうぐん)、かやうの往生ねがはせたまふひとびと
  の、みなの御よろこびにてさふらふ。
 「明法殿(もと山伏弁円)が極楽往生されたとのこと、いまさら驚くことではありませんが、ほんとうにうれしいです。これは、常陸国鹿島郡・同じく行方(なめかた)郡・奥郡(常陸国北部地方)の、このような極楽往生を願っておられる人たち皆の喜びです」とあり、親鸞は明法をしきりに褒めている。明法は念仏の行者として、親鸞としても非常に尊敬できる人物であった。そして親鸞は、明法と並べて了源も褒めているのである。この書状から、了源は建長4年またはその前年に亡くなったと推定される。
 ちなみに、相模国の地名としての「平塚」の初見は、『吾妻鏡』建久3年(1192)8月9日条の記事である。源頼朝の妻の北条政子が産気づいたので、相模国の神社仏閣に安産を祈らせたとする記事の中に、「範隆寺【平塚】」、「黒部宮【平塚】」とあるものである。
(【】内は『吾妻鏡』本文中の注)

神奈川と親鸞 前編41回

神奈川と親鸞 第四十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
六老僧了源と善福寺⑶─了源の出家と親鸞への入門─

安藤広重「東海道五十三次」のうちの「平塚」です。写真中央の高麗山の麓が了源の母の故郷であったといいます。

安藤広重「東海道五十三次」のうちの「平塚」です。写真中央の高麗山の麓が了源の母の故郷であったといいます。

 大磯町高麗の善福寺の開基である了源は、寺伝によれば、親鸞の親しい門弟として知られた平塚入道である。前回に述べたように、父は曽我兄弟の仇討で知られた曽我十郎祐成、母は虎という名の大磯の遊女であったという。その虎から仇討事件後に誕生したのが了源で、幼名は祐若であった。
 祐若は、やがて成人して河津三郎信之と名のって鎌倉幕府に仕え、建保元年(1213)の和田義盛の乱で手柄を立てて将軍源実朝から平塚荘をもらった。親鸞が関東へ来る前の年である。
 祐若改め信之はさらに活躍したが、まもなく出家の思いを強く抱くようになった。そのことを『大谷遺跡録』の「竜頭山善福寺記」に次のように記してある。
  
  信之熟(つらつら)往事を思ふに、父祖三世天然年を尽さず命を失ふ。
  彼らが菩提は如何して求んと。而るに元仁元年甲申年平義時卒す。
  爰にして信之厭離(おんり)の心荐(しきり)にして、則(すなわち)
  薙髪(ちはつ)して戒を受、平塚の了源と改む。

「信之はいろいろと昔のことを考えてみると、曾祖父祐親・祖父祐泰・父祐成と三代にわたって天寿を全うせずに命を失っています。どのようにすれば彼らに極楽往生をさせられるでしょうか。このように思っているうちに、元仁元年(1224)、幕府の執権北条義時が亡くなりました。それを機に、信之にはこの世を捨てたいという気持がしきりに涌き起こりました。そこで髪を剃って出家・受戒し、平塚の了源と名を改めました」。
 実際、曾祖父・祖父・父は殺されている。他にも近い親族で多くの者が殺されている。この時代の習いとはいえ、信之は殺された者の後生を案ぜざるを得なかったのである。
 元仁元年といえば、親鸞は52歳、『教行信証』を著わした年である。親鸞が相模国に姿を現わすのは55、6歳であるから、了源はやがて親鸞の門に入ったということであろう。

神奈川と親鸞 前編40回

神奈川と親鸞 第四十回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

六老僧了源と善福寺⑵─大磯の遊女虎─

安藤広重画「東海道五十三次之内 大磯」

安藤広重画「東海道五十三次之内 大磯」


 前回、富士の裾野の仇討事件と、曽我十郎祐成と弟の曽我五郎時致を紹介した。祐成には虎という名の妻がいた。虎は、事件が起きた3日後の建久4年(1193)6月1日、鎌倉幕府で尋問されている。『吾妻鏡』同日条に次のようにある。【】内は本文の割注である。
  曽我十郎祐成の妾(しょう)、大磯の遊女(あそびめ)【虎と号す】
  召し出さると雖(いえど)も、口状(くじょう)の如くんば、
  その咎なきの間、放ち遣はされ畢(おはん)ぬ。
 「虎という名の祐成の妻が幕府に呼び出されましたが、彼女の弁明の内容を聞くと咎められることはないので、無罪放免されました」。
 「妾」というのは、後世とは異なり、単に「妻」という意味である。身分が比較的低い出身の女性をいう。また「遊女」も、後世のように「卑しい仕事をしている女性」ではない。「あそびめ」は神仏に仕える女性という意味であり、決して卑しい女性とは思われていなかった。むしろ神仏に近い存在と考えられていたのである。『吾妻鏡』同月18日条に、
  故曽我十郎妾【大磯の虎。髪を除かずと雖も黒衣・袈裟を着す】三七日忌辰を迎へ
  箱根山の別当行実(ぎょうじつ)の坊において仏事を修す。(中略)葦毛(あしげ)の馬
  一匹を唱導の施物(せもつ)等と為す。件(くだん)の馬は祐成最後に虎に与ふる所
  なり。則ち今日出家を遂げ、信濃国善光寺に赴く。時に、年十九歳なり。見聞の
  緇素(しそ)、悲涙を拭はざるはなし。
 「虎は夫の三七日を迎えて箱根権現の別当行実の所で法要を行ない、祐成が最後に虎に与えた馬などを布施として差し出しました。そして出家し信濃国の善光寺に向かいました。19歳でした。それを見、また聞いた僧侶や一般の人は皆、虎の悲運に泣かない人はいませんでした」。
 実は虎は懐妊しており、やがて生まれたのが善福寺の了源であったという。

神奈川と親鸞 前編38回(訂正)

神奈川と親鸞 第三十八回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

佐々木高綱と茅ヶ崎の上正寺⑶─聖徳太子像─

南無仏太子像。茅ヶ崎市・上正寺蔵

南無仏太子像。茅ヶ崎市・上正寺蔵

 浄土真宗寺院では、聖徳太子の画像または彫像を本堂の内陣に安置することが一般的である。聖徳太子に対する崇敬心は平安時代中期に天台宗の世界で始まった。鎌倉時代に活躍した天台宗出身の法然・証空・親鸞・一遍らには皆強い聖徳太子信仰があった。ひとり親鸞だけではない。それなのに、親鸞以降の浄土真宗で聖徳太子信仰が強調されていくことには、特別の理由があったということであろう。
 聖徳太子像は、一般的に次の6種類の姿で表現される。
⑴ 南無仏太子像(南無太子像)。2歳
 太子は2歳の時の春2月15日に、東を向いて合掌し、「南無仏」と唱えたという。その姿を表現したのが南無仏太子像である。上半身は裸で、下半身には緋色の裳(も)をつけている。

⑵ 童子形(ぎょう)太子像。7歳
 学問を始めた年という。

⑶ 孝養(きょうよう)太子像。16歳
 父用明天皇の病気平癒を祈願する姿を表わしたもの。両手で香炉を捧げている。

⑷ 馬上太子像 16歳
 仏教を広めることに反対した物部守屋を討った時の姿。

⑸ 摂政太子像 30歳
 伯母推古天皇の摂政として政治を行なった姿を表わしたもの。両手で笏を持つ。

⑹ 講讃太子像 35歳
 『勝鬘経』の講義を推古天皇に行なった時の姿。袈裟を着け宝冠を被っている。上正寺の聖徳太子像は南無仏太子像で江戸時代初期に制作されたと推定される。目の光に威厳のある太子像である。

神奈川と親鸞 前編39回

神奈川と親鸞 第三十九回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

六老僧了源と善福寺⑴─曽我兄弟の仇討─

歌川国芳画「曽我兄弟」

歌川国芳画「曽我兄弟」

大磯町高麗の善福寺の開基は、寺伝によれば親鸞の親しい門弟であった平塚入道了源である。了源は、後に親鸞の関東六老僧の一人として知られるようになっている。
 また了源は仇討で有名な曽我兄弟の兄の方の息子であったという。この兄弟は伊豆東海岸の豪族伊東祐親の孫でもあった。祐親は、源頼朝の最初の息子千鶴丸(ちづるまる)を殺している。千鶴丸は祐経自身の孫でもあった。以下に関係系図を記す。×印は頼朝との関係で、▲印は仇討関係で殺された人物である。

伊東祐親×┬祐清×
                   ├女子
                   │ ┣千鶴丸×
                   │源頼朝
                   ├女子
                   │ ┃
                   │工藤祐経▲
                   └河津三郎祐泰▲┬曽我十郎祐成▲─河津三郎信之
                                                   ├曽我五郎時致▲ 
                                                   └小次郎×

 曽我兄弟の仇討とは、領地争いで祐親を恨んだ祐経が、祐親の嫡男祐泰を殺し、祐泰の息子祐成と時致が成人後に祐経を討った事件である。仇討は源頼朝の富士の裾野での巻き狩りの場面で決行された。祐経を討った後、五郎時致は頼朝の宿所に斬り込もうとする。仇討は、北条時政が時致を使って頼朝を討つ計画が背後にあったともいう。
 この時代は殺し合いが多かったものだ、しかも近い親戚の間で、と思わざるを得ない。十郎祐成の遺児三郎信之が善福寺の了源であったという。

神奈川と親鸞 前編37回

神奈川と親鸞 第三十七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

佐々木高綱と茅ヶ崎の上正寺⑵─親鸞の門弟─

上正寺本堂。茅ヶ崎市小和田

上正寺本堂。茅ヶ崎市小和田

 神奈川県には親鸞との直接の由緒を語る浄土真宗寺院がいくつかある。茅ヶ崎市小和田の上正寺もその一つである。元禄15年(1702)上正寺第14世住職円春(春岸)が筆写した『小和田山上正寺略縁起』によれば、村上天皇の第4皇子が現世を厭う心強く、比叡山に登って出家し、尊勝と名のったという。その尊勝が各地をめぐって修行し、その間「相州高座郡寺尾郷(茅ヶ崎市内)に数ヶ所の堂舎を建て、「海円院」と号したという。これが上正寺の始まりとされている。さらにその『上正寺略縁起』に次のように記されている。(【】内は本文中の割注)
  嘉禄年中の住侶道円【或いは了智と号す。俗姓は宇多源氏佐々木四郎高綱】、親鸞聖人
  に謁し【神津】に於いて。今は国府津と云う。出離の要路を問答し、宿因の芳薫にや
  於霊意、帰他力門、聖人自ら染筆して無上正覚寺と名づけましまし、師弟の相続の証
  に十字尊号并六字を給はり、亦鎌倉旅化之せつも当院は救世菩薩垂迹の地なりとて往
  還休給き。
「嘉禄年間(1225〜1228)の住職道円(了智。佐々木高綱)は、国府津で親鸞聖人に入門しました。聖人は海円院を無上正覚寺と改めて下さり、十字尊号(帰命尽十方無㝵光如来)と六字名号(南無阿弥陀仏)を下さいました。また聖人が鎌倉に布教される時も、この寺は救世観音菩薩が姿を現され後ころだからと、往復に休んでいかれました」。
 国府津といえば、小田原市国府津の海岸近くにある「御勧堂」とその石碑が思い起こされる。国府津は親鸞の相模国布教の拠点の一つであったと推測される。もう一つの拠点は鎌倉とその付近である。
 無上正覚寺は後に親鸞の曾孫覚如が東国の親鸞遺跡巡拝の旅に来た時、この寺にも立ち寄り、寺名の五文字を三文字に省略して「上正寺」と改めたと『上正寺略縁起』にある。なお、『新編相模国風土記稿』には「境内太子堂縁起」が出てくるが、これは『上正寺縁起』のことを示すと考えられる。

神奈川と親鸞 前編36回

神奈川と親鸞 第三十六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

佐々木高綱と茅ヶ崎の上正寺⑴─源頼朝旗下の勇将─

伝佐々木高綱像。和歌山県高野町・泰雲院蔵

伝佐々木高綱像。和歌山県高野町・泰雲院蔵

 茅ヶ崎市小和田の上正寺は佐々木高綱を開基としている。高綱は源頼朝の挙兵以来の勇将として、その名が知られている。源義経に従って木曽義仲を討つ戦いに参加した時の、宇治川合戦での挿話も有名である。高綱はこの時、頼朝から名を「生唼(いけづき)」という名馬を与えられて参戦していた。そしてこの戦いで梶原景季と先陣を争い、みごとに先に対岸に到着したという。『平家物語』巻第九「宇治川」に、高綱は、

  宇治川早しといへども、一文字にざっと渡して、思ふ所にうちあぐる。鐙踏んはり、
  つ立ちあがり、宇多の天皇に八代の後胤、佐々木の三郎秀義が四男、
  佐々木の四郎高綱。宇治川の先陣、

と名のりをあげたと記されている。
 高綱はその功績によって各地に領地を与えられた。それは周防国・因幡国・伯耆国出雲国・日向国などの諸国にあった。頼朝が重源(ちょうげん)を助けて東大寺の復興にあたった事業では、材木の切り出しに手柄があると賞賛された。相模国での高綱の館は、現在の横浜市港北区鳥山町にある鳥山八幡宮付近にあったとされている。また愛馬「生唼」もその近くに馬頭観音として今でも祭られている。なお平家滅亡後、平清盛の娘で安徳天皇の母であった建礼門院は大原の寂光院に入った。これは『平家物語』でよく知られた話である。その建礼門院亡き後の寂光院院主は、高綱の娘が務めている。
 高綱は建久6年(1195)に高野山大悲金剛院で出家し、家督を息子の重綱に譲った。その後は各地を巡ることが多かったとされ、各地に高綱の由緒が伝えられている。建保2年(2014)、信濃国筑摩郡で亡くなった。現在の長野県松本市である。同市には高綱が建立したという浄土真宗・正行寺がある。そして茅ヶ崎市小和田の上正寺も高綱開基として今日にその伝統を受け継いでいる。

神奈川と親鸞 前編35回

神奈川と親鸞 第三十五回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

国府津の真楽寺⑷ 御勧堂

御勧堂の石碑。小田原市国府津

御勧堂の石碑。小田原市国府津

 親鸞が国府津で教えを説いたのは、勧堂という小堂であったともいわれている。蓮如の『国府津(江津)』に真楽寺との絡みで次のように記されている。
  御在世の昔、往生の一途を教化したまふ。其堂場の御跡なりとて、
  あれなる松の木の間に草むらの御座候を、今に勧堂とは申習はしてこそ候へ。
  『大谷遺跡録』にも、次のように記されている。
  相州国府津の勧堂は、高祖聖人在住の時、説法利生の芳趾なり。
 現在、真楽寺から東海道を信号で渡って歩道を左に進むと、やがて右側に「御勧堂」の石碑がある。
 その背後に、コンクリート造りの勧堂が建っている。何十年か前に建てられたことを思わせる。ただ海岸に近く塩害が大きいので、堂内の宝物はすべて真楽寺に引き揚げてあるそうである。御勧堂の石碑は、まさに親鸞の国府津とその近辺の布教を象徴する記念碑といえるだろう。
 親鸞が六十歳のころに帰京する時、この勧堂にしばらく滞在して念仏布教に当たったという伝えもある。当時、東海道で箱根を越えるには二つの道があった。一つは、現在のJR御殿場線に沿って箱根連山を右から大回りして足柄峠を越えて駿河国(静岡県)へ入る道である。これを足柄道といった。もう一つは、正面から険しい箱根山を登り、芦ノ湖を右に見て箱根峠を越えて相模国に入る道である。親鸞のころは足柄道が箱根を越えるにあたっての本道であった。
 のみならず、現代のJR東海道線も百年近く前までは御殿場線が本線であった。昭和9年(1934)に丹那トンネルが開通してから、東海道線は現在のようになったのである。御殿場線はJR国府津駅から始まって静岡県の沼津駅に至っている。国府津は現代に至るまで交通の要地なのである。
 『二十四輩順拝図会』の「勧堂」の項に、
  高祖聖人当国倉田永勝寺におひて化益あらせ給ひし砌、此所に草庵をむすび、
  しばしば往返し群民を御利益なし給ひたる芳趾なり。これによって世俗称して御すすめ堂といふ。
 と永勝寺と勧堂を並べ記してあるのは、親鸞の相模国布教を象徴的に示している。