神奈川と親鸞 前編64回

神奈川と親鸞 第六十四回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
光福寺と隆寛⑵─嘉禄の法難のはじまり─

長楽寺。京都市東山区

長楽寺。京都市東山区


 厚木市飯山・光福寺に墓所のある隆寛は、延暦寺の専修念仏者への弾圧である嘉禄の法難の始まりを作った一人である。
 嘉禄元年(1225)、上野国から延暦寺にやってきた定照という学僧が『弾選択』(だんせんじゃく)という文書を作り、それを京都東山の長楽寺に住んで専修念仏を説いている隆寛に送りつけた。
 「弾選択」というのは、「法然の『選択本願念仏集』の説くところが間違いであると強く非難する」と言う意味である。定照は延暦寺の中で竪者(りっしゃ)という役職にいた。竪者とは、延暦寺や興福寺の問答形式の法会で、質問に答えて正しく教義を説明する役職である。延暦寺は天台宗の本山であるから、竪者は天台教義に関する重大な責任ある役職ということになる。『弾選択』はその役職の者が専修念仏を公式に非難した文書ということである。
 隆寛は強く憤慨し、翌年の嘉禄2年、『顕選択』を書いて『弾選択』に答えた。『選択本願念仏集』がいかに正しいかを主張したのである。この中で隆寛は定照に手ひどく悪口を浴びせ、

  汝の僻破(へきは)の中(あた)らざることは、暗天の飛礫(ひれき)の如し。

 「貴公の下手な非難は的外れで当たっていない。まるで暗闇で飛ばすつぶてのようなものだ」と嘲ったのである。隆寛はこの時すでに八十歳になっており、かなり性格の激しい人物であった。ふだんから専修念仏者たちに勢いを苦々しく思っていた延暦寺の僧たちは、これを聞いてかんかんに怒ったという。
 嘉禄3年(1227)6月、延暦寺を構成する東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)という3地域の僧侶が集合し、「専修念仏を停廃すべし」止めさせようと決議したのが嘉禄の法難のはじまりである。

神奈川と親鸞 前編63回

神奈川と親鸞 第六十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
光福寺と隆寛⑴─親鸞の法兄─

隆寛坐像。厚木市飯山・光福寺蔵

隆寛坐像。厚木市飯山・光福寺蔵

親鸞は60歳で帰京した。その後、年未詳2月3日付で常陸の門弟に送った手紙に、

  京にも、一念多念なんどまふす、あらそふことのおほくてさふらふやうにあること、
  さらさらさふらふべからず。ただ詮ずるところは、唯信抄、後世物語、自力他力、
  この御文どもをよくよくつねにみて、その御こころにたがへずおはしますべし。

「京都でも、「念仏は心をこめてただ1回称えれば極楽往生できる」、「いやできるだけ多くの回数を称えなければ往生できない」という争いが多いのです。これはまったくあってはならないことです。結局のところ、『唯信抄』『後世物語(後世物語聞書)』『自力他力(自力他力分別事)』をふだんからよく読んで、その意としている精神に違うことなくしておいでください」という文がある。
 この中で、『唯信抄』は親鸞の法兄聖覚の著で、『後世物語聞書』と『自力他力分別事』はもう一人の法兄の隆寛の著である。親鸞は隆寛を尊敬しており、関東の門弟たちにも隆寛の名は知られていたのである。その隆寛は厚木の地で亡くなり、墓所が厚木市飯山・光福寺にある。光福寺には隆寛坐像も安置されている。
 隆寛は久安4年(1148)の生まれ、親鸞より25歳の年上である。父は少納言藤原資隆、叔父の皇円は法然の師匠、息子の聖増は慈円の門弟である。
 隆寛は出家して皇円の法兄範源の教えを受け、やがて慈円のもとで天台教学を学んだ。後に法然の門に入って専修念仏を学び、1日に三万五千遍の念仏を称えるようになった、そして終には八万四千編を日課とした。元久元年(1204)、法然から『選択本願念仏集』の閲覧・書写を許されている。隆寛はその時57歳、法然にあつく信頼されていた。
 隆寛は日常の念仏を重んじていて、毎日数万遍の念仏を称えることで臨終に確かに極楽往生できると説いた。いわゆる多念義である。彼は京都東山の長楽寺に住んだので、その教義は長楽寺義とも呼ばれた。

神奈川と親鸞 前編62回

神奈川と親鸞 第六十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑺─現代社会の観点から─

親鸞(左)と善鸞。『慕帰絵』より。西本願寺蔵

親鸞(左)と善鸞。『慕帰絵』より。西本願寺蔵


 大谷大学編『真宗年表』(法蔵館、1973年)を基にして調べると、親鸞82歳から86歳までの5年間に自筆の書物全体の81%が書かれている(書状を除く)。そしてその間の83歳から85歳までの3年間に、なんと全体の62%が書かれているのである。これは、なぜか。それは善鸞の問題に心を痛めたからであるという見方が、善鸞義絶があった、なかった、という両方の意見の人たちでほぼ一致している。この時期はちょうど善鸞問題があった時期である。
 善鸞が関東へ行って念仏の問題を鎮められず、かえって騒ぎを大きくしたことは事実だったようである。親鸞は息子が期待した成果を上げてくれなかったことに対し、自分の指導が足りなかったのではないかと悩んだ。親しかるべき息子さえ説得できなかった自分の信仰とは何であったのかと悩み、若いころからの信仰を振り返った。その際、かつて書いた文章をもう一度書き、また思うところを新たに書いて信仰を確認した。その結果が多数の自筆本執筆となったのであろう、ということである。
 すると、現代にこのように多数の親鸞自筆本が遺ってするのは誰のおかげか。むろん親鸞のおかげであるけれども、善鸞がいなければそれらは存在しなかったのではないか。なんと現代の私たちにとって息子善鸞はありがたい存在と見直すべきではないか、ということなのである。
 また善鸞は、本願寺教団でいえば、親鸞に続く第二世如信をこの世に生み出してくれた人物である。善鸞がいなければ如信はいなかったのである。
 現代は子どもは宝、大切にしようとする意識が高まっている時代である。その観点からも善鸞問題を見直すべきである。親と子は、いつもにっこり笑顔でいるだけが望ましい関係ではない。親鸞と善鸞は多大な遺産を現代の日本、そして世界に遺してくれたのである。それは親子の葛藤の中から生まれたものであった。

神奈川と親鸞 前編61回

神奈川と親鸞 第六十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑹─親鸞の親子観─

親鸞の父日野有範坐像。京都市伏見区・日野誕生院蔵

親鸞の父日野有範坐像。京都市伏見区・日野誕生院蔵


 親鸞が善鸞を義絶したのは83、4歳のころとされてきた。義絶とは親が親子の縁を切ることであるから、父親が息子を捨てるということである。親鸞においてそのようなことがあり得たであろうか。
 親鸞には聖徳太子を讃える「聖徳太子和讃」がある。『皇太子聖徳奉讃』75首、同名の『皇太子所得奉讃』11首、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』114首である。うち、全11首の方の『聖徳太子奉讃』は親鸞88歳の時の作といわれている。
 その中の第2首に次の和讃がある。

  救世観音大菩薩 聖徳皇と示現して
   多々のごとくすてずして 阿摩のごとくにそひたまふ

「救世観音は聖徳太子の姿をとってこの世に現われ、お父さんのように私たちを捨てないで、お母さんのように私たちに寄り添ってくださる」。
 「多々」とはサンスクリット語で「父」のこと、「阿摩」の同じくサンスクリット語の「母」のことである。ただ、「多々」「阿摩」というやさしい音からは「お父ちゃん」「お母ちゃん」を思わせる。
 親鸞は9歳の時に出家した。父の政治的失敗という理由はともかく、親鸞自身としては「父に捨てられた」と思い、「母が一緒にいてくれない」と一人泣く夜もあったのではないだろうか。父は子どもを捨ててはいけないのである。このように説く親鸞が、その4年ほど前に息子善鸞を捨てていただろうか。
 なお、いわゆる「善鸞義絶状」は大正年間に発見されたもので、写本である。親鸞の真筆ではない。偽文書ではないかという意見が強くある。また門弟の性信に義絶を知らせたという「義絶通告状」は室町時代の出版物で初めて世に現われたものである(版本)。こちらも真筆はない。

神奈川と親鸞 前編60回

神奈川と親鸞 第六十回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑸─親鸞の家族観─

日野有範画像。写本。個人蔵

日野有範画像。写本。個人蔵


 親鸞は家族という存在をどのように見ていたであろうか。親鸞は9歳の時に出家して比叡山延暦寺に入った。父日野有範が詳細は未詳ながら政治的に大きな失敗をして出家し、親鸞を頭とする息子5人も出家しなければならなかった。
 親鸞が出家した9歳は、数え歳である。現代で言えば小学校2年生か3年生である。そこから20年間の他人の中での生活で、親鸞は別れてきた親兄弟をどのように思っていたであろうか。教えてもらいたい時も、甘えたい時もあったであろう。
 親鸞は自分の気持とし家族について述べた文章はない。しかし76歳の時、初めて執筆した『浄土和讃』『高僧和讃』のうち、後者の最初の「龍樹菩薩」の項で述べた文が、幼いころの切ない気持を表現しているのではないだろうか。この項全10首のうち第9首と第10首に次のようにある。

  一切菩薩のの給はく われら因地にありしとき
   無量劫をへめぐりて 万善諸行を修せしかど (第9首)
  恩愛はなはだたちがたく 生死はなはだつきがたし
   念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せし (第10首)

「すべての菩薩が言われることには、私が修行をしていた時、無数の年月に悟りのためには善いとされる修行をしてきましたが」、「親子・夫婦の縁に対する執着心を断ち切ることはできず、悟りには至れませんでした。念仏をひたすら称えてやっと悪行を消して悟りに至れました」
 若いころの親鸞は、いくら厳しい修行をしても悟りに至れない最後の理由は家族に対する愛情だ、と自覚していたのではないだろうか。
 では善鸞義絶が言われる親鸞80代のころ、息子善鸞についてどのように思っていたのであろうか。

神奈川と親鸞 前編59回

神奈川と親鸞 第五十九回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
  親鸞と善鸞⑷─親鸞からもらった名号─

伝善鸞筆名号。福島県白河市・常瑞寺蔵

伝善鸞筆名号。福島県白河市・常瑞寺蔵


 覚如に関する伝記絵巻である『最須敬重絵詞』に、覚如が馬に乗っている姿を見たことが記されている。このシリーズの前回に取り上げたお札(ふだ)に引き続く挿話として載せているので、正応3年(1290)、覚如21歳の時のことである。
 幕府の執権で相模守であった北条貞時が由比ヶ浜へ出る行列で、二、三百騎の家来の男女や僧尼が入り混じっている中に、善鸞も加わっていた。その様子は、

  聖人よりたまはられける無㝵光如来の名号のいつも身をはなたれぬを頸にかけ、
  馬上にても他事なく念仏せられけり。

 「親鸞からいただいた「帰命尽十方無㝵光如来」の名号を、それはいつも身に着けていたものですが、首にかけ、馬に乗っていても他のことを気にかけることもなく念仏を称えておられた」。
 この時善鸞は推定89歳、元気なものである。関東へ来てからすでに40年近く経っている。このシリーズ前回に取り上げたお札に関して言えば、関東へ来たばかりの50歳過ぎのことではないのである。関東の人々に親鸞の念仏を伝えるにはどのようにしたらよいか、善鸞なりに考えた結果の方法である。由比ヶ浜への行列では、善鸞は親鸞からもらった名号を首にかけて念仏を称えている。
 その後覚如は常陸国でも善鸞の姿を見ている。ここでは地元の豪族小田知頼が鹿島神宮へ参詣するお供であった。親鸞没後約三十年、善鸞は親鸞を崇拝している。

  そのときも本尊の随身といひ、騎中の称名といひ、関東の行儀にすこしもたがはず。

 「関東(執権)のお供の様子と少しも変わってなかった」と述べている。
 また『最須敬重絵詞』には、親鸞が京都五条西洞院に住んでいたある冬のころ、親鸞と善鸞が火鉢を間にして親しげに語り合っている様子が述べられ、また該当部分の絵にも同じように描かれている。

神奈川と親鸞 前編58回

神奈川と親鸞 第五十八回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑶─善鸞の病気をなおす?「まじない札」─

如信坐像。大子町上金沢・法龍寺蔵。本稿では修復前の像の写真を掲載

如信坐像。大子町上金沢・法龍寺蔵。本稿では修復前の像の写真を掲載


 覚如に関する伝記絵巻の『最須敬重絵詞』に、善鸞に関する有名な挿話がある。本書は文和元年(1352)に、覚如の高弟乗専が制作した。善鸞は符(ふ。まじない札)で病気を治そうとしたという。善鸞が怪しげな教えを説いたという一番の根拠になった挿話である。
 正応三年(1290)、覚如は父の覚恵とともに東国の親鸞遺跡巡拝の旅に出た。途中、常陸国小柿の山中で温病(うんびょう。熱性の風邪)になってしまった。身体も痛くて横になっていたところ、たまたま近くにいた善鸞と如信の親子が見舞いに来てくれた。
 善鸞は「私はお札(ふだ)でなんでも災難をなおすことができる。お札に呪文を書いてあげるから、それを飲みなさい」と書いて覚如に渡そうとした。しかし覚如は「飲みたくない」と思い、熱にうかされているふりをして受け取らなかった。すると、

  厳親枕にそふて坐し給けるが、本人辞遁の気をば見給ながら、片腹痛とや思給けん、
  それそれと勧らる。信上人、又そばにて取継て、やがて手にてわたし給ける、

 「父覚恵は覚如の枕元に座っていて、覚如がお札を嫌がっているのを見て、けしからんことと思われたのだろう、早く飲みなさいと催促された。如信上人は善鸞からお札を受け取ってすぐ覚如に手渡されたところ」ということなった。つまり、善鸞はもちろん覚恵も如信も、みんな覚如にお札を飲まそうとしている。そして乗専はこの挿話を、

  かの符術も名号加持の力をもととせられけるにや、
  もちゐる人はかならずその勝利むなしからざりけり。

 「善鸞のお札も、南無阿弥陀仏の名号の力がもとになっているからであろうか、飲む人は必ず優れた効果があったのである」。と締めくくった。覚如の高弟乗専も本気でお札の効果を認めている。お札のことで非難されるなら、それは善鸞だけではないということである。
 またこの挿話は『慕帰絵』にも相模国の余綾(ゆろぎ。ゆるぎ。大磯から国府津あたり)山中のこととして載っている。

神奈川と親鸞 前編57回

神奈川と親鸞 第五十七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑵─善鸞はほんとうに義絶されたのか?─

善鸞坐像。厚木市飯山・弘徳寺蔵。同寺蔵の信楽坐像と似た風貌

善鸞坐像。厚木市飯山・弘徳寺蔵。同寺蔵の信楽坐像と似た風貌


 現代では、親鸞の息子善鸞は親に背いた親不孝者で、とうとう父から親子の縁を切られた(義絶。勘当)と思われている。それは親鸞84歳のころで、親鸞最晩年の大悲劇、親鸞はお気の毒であった、とされている。しかし、はたしてそれは事実であったろうか。
 覚如は「本願寺」の名称を創設し、本願寺教団の基礎を固めた人物であるが、彼が親鸞を本願寺第一世としたのはごく当然ながら、第二世を善鸞の息子如信としているのは非常に興味深い。そして第三世は覚如自身である。これらの人々の関係を系図で示すと次のようになる。

親鸞①──善鸞──如信②
┃        ┃
┃       ┌光玉
┠───覚信尼─覚恵──覚如③
恵信尼

 如信は幼児から親鸞の教えを受け、人格優れた人物として知られていた。覚如も如信の教えを受けている。覚如がその如信を本願寺第二世に据えるのは当然ながら、しかしその父の善鸞が親鸞をひどい目にあわせ、親鸞から縁を切られたのだったら、息子如信を第二世に据えることができるであろうか。覚如は会う人ごとにいちいち弁解しなければなるまい。それなら第二世に覚信尼または覚恵を据えるという選択肢もあったはずである。
 現代のいわゆる真宗十派のうち、第二世を如信としているのは実は真宗大谷派・浄土真宗本願寺派・真宗木辺派の三派だけである。他の七派はそれぞれゆかりの人物を第二世に据えている。そして、そのうちの二つの派が第二世に善鸞を据えているのである。ほんとう義絶されていたのであったら、そうはいくまい。
 次回から善鸞に関するいくつかの挿話を検討していきたい。

神奈川と親鸞 前編56回

神奈川と親鸞 第五十六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

親鸞と善鸞⑴─善鸞の墓所─

善鸞墓所。厚木市飯山・弘徳寺墓所

善鸞墓所。厚木市飯山・弘徳寺墓所


 厚木市飯山の弘徳寺には親鸞の息子善鸞の墓所がある。本堂の右手奥、畑を隔てた小高い丘の墓地の入り口あたりの、土饅頭型の墓所である。
 土饅頭型の墓所は、鎌倉時代に多くの豪族の墓所として造られていた。例えば、貞応元年(1222)に亡くなった河野通信の墓所(岩手県奥州市江刺区にある)がこの土饅頭型である。通信は伊予国(愛媛県)の大豪族で鎌倉幕府創業に力を尽くした武将、また時宗の開祖一遍(藤沢市に本山の遊行寺がある)の祖父でもある。一遍は踊り念仏で知られており、法然の曾孫弟子にあたっているから、親鸞とも無関係ではない。この一遍の伝記絵巻である『一遍聖絵』に描かれている通信の墓所を見ると、善鸞の墓所によく似ている。
 鎌倉時代には、亡くなった人が貴族または有力豪族ならば法華堂の下に埋葬するのが一般的であった(鎌倉市西御門の源頼朝と北条義時の墓所など)。僧侶ならば火葬にして木の下に埋葬したり、五輪塔の中に安置したりした(鎌倉市極楽寺の忍性塔など)。
 俗人ならば村はずれに遺体を置いてくるのが一般であった。夫婦が同じ所に埋葬される慣行ができるのは室町時代になってからである。そして現在のように「〜家の墓」という」家族墓が成立するのは江戸時代も元禄のころになってからである。
 筆者(今井)が初めて弘徳時の墓所にお参りしたころ、それは30数年前だったろうか、表面をコンクリートで固める途中であった。察するに、土饅頭の土が少しずつ落ちて、そのままにしておくと崩れるという結果になってしまうからであろう。
 弘徳寺の寺伝によれば、善鸞は晩年にこの寺に住み、弘安元年に(1278)に亡くなったという。いつの時点かに豪族風の墓所が作られて今日に伝えられているのである。歴史的遺跡としても貴重である。 
 なお善鸞の墓所は、福島県西白河郡泉崎村にもある。

神奈川と親鸞 前編55回

神奈川と親鸞 第五十五回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
信楽と厚木市飯山の弘徳寺⑷─再入門した信楽─

信楽坐像。厚木市飯山・弘徳寺蔵

信楽坐像。厚木市飯山・弘徳寺蔵


 飯山の弘徳寺の開基信楽は、京都で親鸞に叱られて門下を離れ、故郷に帰った。その後また京都に上って親鸞に許された、と弘徳寺の寺伝は伝えている。その時に親鸞から八十八歳の寿像(じゅぞう)を与えられた。これが現在も弘徳寺に安置されている「親鸞聖人坐像」であるという。
 寿像とは、その人の生前に制作された彫刻または絵画の肖像のことである。このような肖像は、その人が亡くなってから制作するのが普通だった。生前に制作すると、その人の生きる力を吸い取ってしまうからよくない、と思われていたからである。特例で生前に制作したのを「寿像」と称している。
 さらに弘徳寺の寺伝によると、親鸞没後、如信から親鸞の遺骨をもらって「親鸞聖人坐像」の胎内に納めて尊崇したという。
 同じく信楽を開基とする茨城県結城郡八千代町新地の弘徳寺の寺伝では、許されたのは親鸞の曾孫覚如からであったとする。江戸時代の『遺徳法輪集』弘徳寺の項によると、覚如が諸国を巡った時、この寺の前を通り過ぎると勤行の様子が浄土真宗らしかった。そこで覚如はその寺に入って事情を聞いてみた。覚如が関東に来たのは正応3年(1290)のこと、親鸞没後30年近く経っている。かなり高齢になっていたが信楽はまだ存命で、

  不思議の幸いとよろこび、信楽房突鼻にあづかりしむねを申しまひらせ、
  改悔の旨をひらき廻心の涙を流し、願くば免を蒙りたきと申されければ、

「こんなこともあるのかと喜び、親鸞聖人に突鼻にあずかった状況をお話しし、「あの時はすみませんでした。今は私が悪かったと反省しています」と涙を流し、「できればお許しをいただき、また聖人の御門下に戻りたいです」と願いました。
 覚如はこれを聞いて、反省して心を入れ替えたのなら特に問題はないだろうと門下に戻ることを許したというのである。