神奈川と親鸞 前編第3回
吉水草庵の跡とされる法垂窟(ほうたるの・いわや)
たとひ、法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。 (『歎異抄第2章』)
「法然上人が嘘をおつきになるはずはありません。でも、仮りに、「念仏を称えれば極楽往生できます」と仰っているのが嘘であって、あの恐ろしい地獄に堕ちてしまっても私親鸞は決して後悔は致しません」。
現代の私たちとは異なり、当時の人たちは未来永劫に火に焼かれ赤鬼青鬼に責めたてられる地獄はほんとうに存在する、と思っていたのである。悩みが多く、この世への執着心が強く、悪人である自分は地獄に堕ちるのは決定的だ、と親鸞は覚悟していた。その自分を法然は救ってくれた。この人を信じようと親鸞が決心したのは、29歳の時であった。
親鸞は9歳で出家し、比叡山延暦寺で少年から青年の日々を勉学と修行に明け暮れた。延暦寺では、経典・法要・密教の修法・医学・一般教養等、さまざまに学ばねばならなかった。その中で人生を見とおす智慧を身に付けていき、悟りに至るべく努力するのである。
しかしなかなか悟りに近づけず、かといって教団の中の華やかな地位も得られず、親鸞は苦悩するばかりであった。とうとう29歳で比叡山を下り、京都六角堂での百日間の参籠を経て、東山で専修念仏を説いて有名だった法然を訪ねることにしたのである。
法然は、何も心配はいらない、阿弥陀仏が無限に大きく広い慈悲の心で救って下さる、それにはただ南無阿弥陀仏と称えるだけでよい、と教えた。称名念仏である。念仏だけを称え続けるのが専修念仏である。そのころまで称名念仏はほとんど効果がないと思われていた。しかし法然は、これこそ唯一、無数の悟れない人々が救われる方法であると説いた。いままでとは180度異なる教えである。簡単には信じられるものではないけれども、藁をもすがる思いの親鸞は100日間、法然のもとに通ってその人格に触れ、感動し、この人の説く教えなら間違いないと信じ切った。そしてその感動と信頼は一生の間続いたのである。
神奈川と親鸞 前編第3回 筑波大学名誉教授 今井雅晴
親鸞を知るために ⑵ 師匠の法然