神奈川と親鸞 第七十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
厚木市上落合の長徳寺
厚木市上落合の長徳寺は、同じく厚木市の岡田の長徳寺と同名です。今回取り上げた上落合の長徳寺のそもそもの成立については、よく分かっていません。寺伝ではもと真言宗の寺院であったとされています。その後、住職が西香という僧侶であったころ、親鸞に帰依して浄土真宗の寺院になったといいます。それは寛喜二年(1230)であったとされています。この年は親鸞は58歳で、記録に残っている限り、法兄聖覚の『唯信抄』を初めて書写した年です。また後世に寛喜の大飢饉と呼ばれた大変な飢饉のあった年でもあります。この大飢饉は、前後3年は続いた大災害でした。
長徳寺のその後の展開は明らかではありません。しかし戦国時代末期の天正19年(1591)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼすために大軍をもって攻め寄せて来た時、長徳寺に禁制を与えて保護したことが分かっています。その禁制の内容は、軍勢が長徳寺で乱暴狼藉をすること・長徳寺に放火をすること・長徳寺に勝手な要求をすることを禁止する、などでした。「禁制」とは寺社などの保護・統制を目的として、権力者が禁止事項を書いたものです。寺社の門前などに木札などで書かれて示されることが多くありました。
また文禄元年(1592)11月の本願寺顕如の没にあたって、長徳寺は銀子4匁5分5厘を献上しています。翌年正月6日、本願寺の坊官下間頼廉は「顕如様往生の志として銀子四匁五分五りん、進上の通り懇ろに申し上げ候。則ち御印書を成され候(顕如の後を継いだ教如が、その印を押した礼状を書かれました)」と丁寧な手紙を送ってきています。長徳寺は有力寺院だったのです。
ところで長徳寺の本尊阿弥陀如来立像は、放射状の光背を背負う浄土真宗形式の阿弥陀像で、寄木造・像高63センチです。戦国時代の天文4年(1535)に小田原北条氏の家臣であった藤田氏が造立したものです。本年(2017)1月、厚木市の文化財に指定されました。