神奈川と親鸞 前編63回

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神奈川と親鸞 第六十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
光福寺と隆寛⑴─親鸞の法兄─

隆寛坐像。厚木市飯山・光福寺蔵

隆寛坐像。厚木市飯山・光福寺蔵

親鸞は60歳で帰京した。その後、年未詳2月3日付で常陸の門弟に送った手紙に、

  京にも、一念多念なんどまふす、あらそふことのおほくてさふらふやうにあること、
  さらさらさふらふべからず。ただ詮ずるところは、唯信抄、後世物語、自力他力、
  この御文どもをよくよくつねにみて、その御こころにたがへずおはしますべし。

「京都でも、「念仏は心をこめてただ1回称えれば極楽往生できる」、「いやできるだけ多くの回数を称えなければ往生できない」という争いが多いのです。これはまったくあってはならないことです。結局のところ、『唯信抄』『後世物語(後世物語聞書)』『自力他力(自力他力分別事)』をふだんからよく読んで、その意としている精神に違うことなくしておいでください」という文がある。
 この中で、『唯信抄』は親鸞の法兄聖覚の著で、『後世物語聞書』と『自力他力分別事』はもう一人の法兄の隆寛の著である。親鸞は隆寛を尊敬しており、関東の門弟たちにも隆寛の名は知られていたのである。その隆寛は厚木の地で亡くなり、墓所が厚木市飯山・光福寺にある。光福寺には隆寛坐像も安置されている。
 隆寛は久安4年(1148)の生まれ、親鸞より25歳の年上である。父は少納言藤原資隆、叔父の皇円は法然の師匠、息子の聖増は慈円の門弟である。
 隆寛は出家して皇円の法兄範源の教えを受け、やがて慈円のもとで天台教学を学んだ。後に法然の門に入って専修念仏を学び、1日に三万五千遍の念仏を称えるようになった、そして終には八万四千編を日課とした。元久元年(1204)、法然から『選択本願念仏集』の閲覧・書写を許されている。隆寛はその時57歳、法然にあつく信頼されていた。
 隆寛は日常の念仏を重んじていて、毎日数万遍の念仏を称えることで臨終に確かに極楽往生できると説いた。いわゆる多念義である。彼は京都東山の長楽寺に住んだので、その教義は長楽寺義とも呼ばれた。

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