神奈川と親鸞 前編61回

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神奈川と親鸞 第六十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑹─親鸞の親子観─

親鸞の父日野有範坐像。京都市伏見区・日野誕生院蔵

親鸞の父日野有範坐像。京都市伏見区・日野誕生院蔵


 親鸞が善鸞を義絶したのは83、4歳のころとされてきた。義絶とは親が親子の縁を切ることであるから、父親が息子を捨てるということである。親鸞においてそのようなことがあり得たであろうか。
 親鸞には聖徳太子を讃える「聖徳太子和讃」がある。『皇太子聖徳奉讃』75首、同名の『皇太子所得奉讃』11首、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』114首である。うち、全11首の方の『聖徳太子奉讃』は親鸞88歳の時の作といわれている。
 その中の第2首に次の和讃がある。

  救世観音大菩薩 聖徳皇と示現して
   多々のごとくすてずして 阿摩のごとくにそひたまふ

「救世観音は聖徳太子の姿をとってこの世に現われ、お父さんのように私たちを捨てないで、お母さんのように私たちに寄り添ってくださる」。
 「多々」とはサンスクリット語で「父」のこと、「阿摩」の同じくサンスクリット語の「母」のことである。ただ、「多々」「阿摩」というやさしい音からは「お父ちゃん」「お母ちゃん」を思わせる。
 親鸞は9歳の時に出家した。父の政治的失敗という理由はともかく、親鸞自身としては「父に捨てられた」と思い、「母が一緒にいてくれない」と一人泣く夜もあったのではないだろうか。父は子どもを捨ててはいけないのである。このように説く親鸞が、その4年ほど前に息子善鸞を捨てていただろうか。
 なお、いわゆる「善鸞義絶状」は大正年間に発見されたもので、写本である。親鸞の真筆ではない。偽文書ではないかという意見が強くある。また門弟の性信に義絶を知らせたという「義絶通告状」は室町時代の出版物で初めて世に現われたものである(版本)。こちらも真筆はない。

神奈川と親鸞 前編61回」への1件のフィードバック

  1. 「善鸞義絶」がなかったとしたら、従来の「親鸞伝」や「宗学」は根底から見直されなければならないと思います。
    確かに「善鸞義絶状」は「顕智書写本」しかありません。顕智直筆かどうかの史料検証は必要ですが、今のところ顕智直筆と考えられているようです。
    小生は親鸞真筆の「義絶状」は《鎌倉での訴え》の❝証文❞として、性信側から幕府に提出されたのではないか、と考えています。これが決定的証拠となり、性信側の勝訴となったのではないでしょうか。つまり、2通あったのではないでしょうか。善鸞は恐らく破棄したでしょうし、もう1通は顕智らに書写させたと思います。結果、親鸞真筆は善鸞側にも性信側にも伝わらなかったはずです。従って「写し」しか伝持されなかったのは当然ではないでしょうか(「写し」とはいえ、横曽根門徒や高田門徒らにとってはまさしく❝大切の証文❞として大事に秘蔵されていたはずです)。
    ちなみに小生は親鸞が善鸞を義絶した一番の理由は「鎌倉に訴えた(=権力に頼った)」からだと考えています。「いかなることがあっても権力におもねってはいけない」・・・これが親鸞の権力者に対する「信念」だったと思います。
    なぜなら、法然・親鸞を❝遠流❞にし、仲間4人を死罪にしたのはまさしく「権力者」だったのですから・・・。『教行信証』では「主上臣下 背法違義 成忿結怨」と激しく弾劾しています(「主上」を名指しして批判したのは、多くの祖師方の中で親鸞だけでしょう)。
    なお、史料には「真筆」と「真作」があります。「真筆」は間違いなく第一級史料です。「写本」「版本」でも十分検証した上で「真作」と考えられる場合は依用できるのではないでしょうか。{文中祖師方の尊称は略す}

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