神奈川と親鸞 第五十九回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑷─親鸞からもらった名号─
覚如に関する伝記絵巻である『最須敬重絵詞』に、覚如が馬に乗っている姿を見たことが記されている。このシリーズの前回に取り上げたお札(ふだ)に引き続く挿話として載せているので、正応3年(1290)、覚如21歳の時のことである。
幕府の執権で相模守であった北条貞時が由比ヶ浜へ出る行列で、二、三百騎の家来の男女や僧尼が入り混じっている中に、善鸞も加わっていた。その様子は、
聖人よりたまはられける無㝵光如来の名号のいつも身をはなたれぬを頸にかけ、
馬上にても他事なく念仏せられけり。
「親鸞からいただいた「帰命尽十方無㝵光如来」の名号を、それはいつも身に着けていたものですが、首にかけ、馬に乗っていても他のことを気にかけることもなく念仏を称えておられた」。
この時善鸞は推定89歳、元気なものである。関東へ来てからすでに40年近く経っている。このシリーズ前回に取り上げたお札に関して言えば、関東へ来たばかりの50歳過ぎのことではないのである。関東の人々に親鸞の念仏を伝えるにはどのようにしたらよいか、善鸞なりに考えた結果の方法である。由比ヶ浜への行列では、善鸞は親鸞からもらった名号を首にかけて念仏を称えている。
その後覚如は常陸国でも善鸞の姿を見ている。ここでは地元の豪族小田知頼が鹿島神宮へ参詣するお供であった。親鸞没後約三十年、善鸞は親鸞を崇拝している。
そのときも本尊の随身といひ、騎中の称名といひ、関東の行儀にすこしもたがはず。
「関東(執権)のお供の様子と少しも変わってなかった」と述べている。
また『最須敬重絵詞』には、親鸞が京都五条西洞院に住んでいたある冬のころ、親鸞と善鸞が火鉢を間にして親しげに語り合っている様子が述べられ、また該当部分の絵にも同じように描かれている。