神奈川と親鸞 第五十八回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑶─善鸞の病気をなおす?「まじない札」─
覚如に関する伝記絵巻の『最須敬重絵詞』に、善鸞に関する有名な挿話がある。本書は文和元年(1352)に、覚如の高弟乗専が制作した。善鸞は符(ふ。まじない札)で病気を治そうとしたという。善鸞が怪しげな教えを説いたという一番の根拠になった挿話である。
正応三年(1290)、覚如は父の覚恵とともに東国の親鸞遺跡巡拝の旅に出た。途中、常陸国小柿の山中で温病(うんびょう。熱性の風邪)になってしまった。身体も痛くて横になっていたところ、たまたま近くにいた善鸞と如信の親子が見舞いに来てくれた。
善鸞は「私はお札(ふだ)でなんでも災難をなおすことができる。お札に呪文を書いてあげるから、それを飲みなさい」と書いて覚如に渡そうとした。しかし覚如は「飲みたくない」と思い、熱にうかされているふりをして受け取らなかった。すると、
厳親枕にそふて坐し給けるが、本人辞遁の気をば見給ながら、片腹痛とや思給けん、
それそれと勧らる。信上人、又そばにて取継て、やがて手にてわたし給ける、
「父覚恵は覚如の枕元に座っていて、覚如がお札を嫌がっているのを見て、けしからんことと思われたのだろう、早く飲みなさいと催促された。如信上人は善鸞からお札を受け取ってすぐ覚如に手渡されたところ」ということなった。つまり、善鸞はもちろん覚恵も如信も、みんな覚如にお札を飲まそうとしている。そして乗専はこの挿話を、
かの符術も名号加持の力をもととせられけるにや、
もちゐる人はかならずその勝利むなしからざりけり。
「善鸞のお札も、南無阿弥陀仏の名号の力がもとになっているからであろうか、飲む人は必ず優れた効果があったのである」。と締めくくった。覚如の高弟乗専も本気でお札の効果を認めている。お札のことで非難されるなら、それは善鸞だけではないということである。
またこの挿話は『慕帰絵』にも相模国の余綾(ゆろぎ。ゆるぎ。大磯から国府津あたり)山中のこととして載っている。
『慕帰絵詞』第四巻には善鸞について、❝覚如の言❞として〈さる一道の先達となられければ(中略)ただいま大殿の御濱いでとて男法師尼女たなびきて、むしといふ物をたれて、二三百騎にて鹿島へまいらせたまふとて、おびただしくののめく〉とあります。このことは義絶後も多くの門弟を抱え、影響力を持っていたことを証明していると思います。
さらに〈かかる時も他の本尊をばもちゐず、❝無礙光如来の名號ばかり❞をかけて、一心に念佛せられけるとぞ〉とあることから、小生は善鸞の思想は、いわゆる「賢善精進」義ではなかったか、と思います。それ故、義絶後も多くの門弟が付き従ったのではないでしょうか。
結局、覚如は善鸞を全面否定せず、如信の父として❝微妙な位置付け❞に善鸞を置いた、と思います(文中祖師方の尊称を略す)。