神奈川と親鸞 前編47回

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神奈川と親鸞 第四十七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

了源(伊東祐光)と横浜市戸塚区の長光寺

長光寺山門

長光寺山門


 大磯町・善福寺の開基は伊東祐親の孫河津三郎信之とされている。南足柄市・善福寺の開基は、祐親の孫の四郎祐光とされている。いずれも親鸞の弟子で、法名は了源である。
 ところで、横浜市栄区小菅ヶ谷の長光寺の開基も祐光で、法名は同じく了源である。系図を見れば次のようになっている。

  伊東祐親─┬九郎祐清──────────祐光
         └河津三郎祐泰─曽我十郎祐成─河津三郎信之

 祐親は源頼朝の捕虜となって自刃、祐清は戦死、祐泰と祐成も殺されているから、彼らが生きた鎌倉時代は凄まじい時代であった。
 長光寺の伝えによれば、祐親は伊豆国に流されてきた文覚から自作の薬師如来像を贈られた。この像は祐親から祐清に渡った。祐清が戦死すると、息子の祐光は母と妻とともに鎌倉に来て出家して道意と名のり、小菅ヶ谷に父の菩提を弔うために寺院を建てて東照山医王院と号したという。「医王」というのは、薬師如来の別名である。『新編相模国風土記稿』の長光寺の項に次のようにある。

  開山を道意と云ふ〔寺伝に、意は伊藤九郎祐清の子、(中略)父が崇敬せし薬師如来を本尊とす。

文中の「伊藤」は「伊東」が正しい。
 道意は後に親鸞の門に入り、法名を淳心房了源と改め、寺も浄土真宗に改めたという。さらに了源の孫了諦(りょうてい)の時、本願寺第三世の覚如から長光寺の寺号を授けられたとされる。
 文覚の薬師如来像は、通称「花立薬師(はなたて・やくし)」といい、現在も長光寺に伝えられている。また親鸞は七体の聖徳太子像を刻んだといい、そのうちの一体と伝えられる太子像も、長光寺に伝えられている。

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