神奈川と親鸞 第四十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
六老僧了源と善福寺⑷─親鸞書状の平塚入道─
親鸞の建長4年(1252)2月24日付の書状の中に、次の文がある。
ひらつかの入道殿の御往生のこと、ききさふらふこそ、かへすがへすまふすに
かぎりなくおぼえさふらへ。めでたさ、まふしつくすべくもさふらはず。
をのをの、みな往生は一定(いちじょう)とおぼすめすべし。
「平塚の入道殿が極楽往生をされたとお聞きしましたことは、ほんとうにいくらお祝いしてもお祝いしきれないように思います。このおめでたさは、言葉で表現しきれるものではありません。皆さん、極楽往生は必ずかなうとお思い下さい」。
文中の「ひらつか入道」が大磯町・善福寺開基の了源のことと推定されている。またこの文章の前には、
明法御房の往生のこと、をどろきまふすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく
さふらふ。鹿嶋・なめたか・奥郡(おうぐん)、かやうの往生ねがはせたまふひとびと
の、みなの御よろこびにてさふらふ。
「明法殿(もと山伏弁円)が極楽往生されたとのこと、いまさら驚くことではありませんが、ほんとうにうれしいです。これは、常陸国鹿島郡・同じく行方(なめかた)郡・奥郡(常陸国北部地方)の、このような極楽往生を願っておられる人たち皆の喜びです」とあり、親鸞は明法をしきりに褒めている。明法は念仏の行者として、親鸞としても非常に尊敬できる人物であった。そして親鸞は、明法と並べて了源も褒めているのである。この書状から、了源は建長4年またはその前年に亡くなったと推定される。
ちなみに、相模国の地名としての「平塚」の初見は、『吾妻鏡』建久3年(1192)8月9日条の記事である。源頼朝の妻の北条政子が産気づいたので、相模国の神社仏閣に安産を祈らせたとする記事の中に、「範隆寺【平塚】」、「黒部宮【平塚】」とあるものである。
(【】内は『吾妻鏡』本文中の注)