神奈川と親鸞 第四十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
六老僧了源と善福寺⑶─了源の出家と親鸞への入門─
大磯町高麗の善福寺の開基である了源は、寺伝によれば、親鸞の親しい門弟として知られた平塚入道である。前回に述べたように、父は曽我兄弟の仇討で知られた曽我十郎祐成、母は虎という名の大磯の遊女であったという。その虎から仇討事件後に誕生したのが了源で、幼名は祐若であった。
祐若は、やがて成人して河津三郎信之と名のって鎌倉幕府に仕え、建保元年(1213)の和田義盛の乱で手柄を立てて将軍源実朝から平塚荘をもらった。親鸞が関東へ来る前の年である。
祐若改め信之はさらに活躍したが、まもなく出家の思いを強く抱くようになった。そのことを『大谷遺跡録』の「竜頭山善福寺記」に次のように記してある。
信之熟(つらつら)往事を思ふに、父祖三世天然年を尽さず命を失ふ。
彼らが菩提は如何して求んと。而るに元仁元年甲申年平義時卒す。
爰にして信之厭離(おんり)の心荐(しきり)にして、則(すなわち)
薙髪(ちはつ)して戒を受、平塚の了源と改む。
「信之はいろいろと昔のことを考えてみると、曾祖父祐親・祖父祐泰・父祐成と三代にわたって天寿を全うせずに命を失っています。どのようにすれば彼らに極楽往生をさせられるでしょうか。このように思っているうちに、元仁元年(1224)、幕府の執権北条義時が亡くなりました。それを機に、信之にはこの世を捨てたいという気持がしきりに涌き起こりました。そこで髪を剃って出家・受戒し、平塚の了源と名を改めました」。
実際、曾祖父・祖父・父は殺されている。他にも近い親族で多くの者が殺されている。この時代の習いとはいえ、信之は殺された者の後生を案ぜざるを得なかったのである。
元仁元年といえば、親鸞は52歳、『教行信証』を著わした年である。親鸞が相模国に姿を現わすのは55、6歳であるから、了源はやがて親鸞の門に入ったということであろう。