神奈川と親鸞 第三十九回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
六老僧了源と善福寺⑴─曽我兄弟の仇討─
大磯町高麗の善福寺の開基は、寺伝によれば親鸞の親しい門弟であった平塚入道了源である。了源は、後に親鸞の関東六老僧の一人として知られるようになっている。
また了源は仇討で有名な曽我兄弟の兄の方の息子であったという。この兄弟は伊豆東海岸の豪族伊東祐親の孫でもあった。祐親は、源頼朝の最初の息子千鶴丸(ちづるまる)を殺している。千鶴丸は祐経自身の孫でもあった。以下に関係系図を記す。×印は頼朝との関係で、▲印は仇討関係で殺された人物である。
伊東祐親×┬祐清×
├女子
│ ┣千鶴丸×
│源頼朝
├女子
│ ┃
│工藤祐経▲
└河津三郎祐泰▲┬曽我十郎祐成▲─河津三郎信之
├曽我五郎時致▲
└小次郎×
曽我兄弟の仇討とは、領地争いで祐親を恨んだ祐経が、祐親の嫡男祐泰を殺し、祐泰の息子祐成と時致が成人後に祐経を討った事件である。仇討は源頼朝の富士の裾野での巻き狩りの場面で決行された。祐経を討った後、五郎時致は頼朝の宿所に斬り込もうとする。仇討は、北条時政が時致を使って頼朝を討つ計画が背後にあったともいう。
この時代は殺し合いが多かったものだ、しかも近い親戚の間で、と思わざるを得ない。十郎祐成の遺児三郎信之が善福寺の了源であったという。