神奈川と親鸞 第三十七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
佐々木高綱と茅ヶ崎の上正寺⑵─親鸞の門弟─
神奈川県には親鸞との直接の由緒を語る浄土真宗寺院がいくつかある。茅ヶ崎市小和田の上正寺もその一つである。元禄15年(1702)上正寺第14世住職円春(春岸)が筆写した『小和田山上正寺略縁起』によれば、村上天皇の第4皇子が現世を厭う心強く、比叡山に登って出家し、尊勝と名のったという。その尊勝が各地をめぐって修行し、その間「相州高座郡寺尾郷(茅ヶ崎市内)に数ヶ所の堂舎を建て、「海円院」と号したという。これが上正寺の始まりとされている。さらにその『上正寺略縁起』に次のように記されている。(【】内は本文中の割注)
嘉禄年中の住侶道円【或いは了智と号す。俗姓は宇多源氏佐々木四郎高綱】、親鸞聖人
に謁し【神津】に於いて。今は国府津と云う。出離の要路を問答し、宿因の芳薫にや
於霊意、帰他力門、聖人自ら染筆して無上正覚寺と名づけましまし、師弟の相続の証
に十字尊号并六字を給はり、亦鎌倉旅化之せつも当院は救世菩薩垂迹の地なりとて往
還休給き。
「嘉禄年間(1225〜1228)の住職道円(了智。佐々木高綱)は、国府津で親鸞聖人に入門しました。聖人は海円院を無上正覚寺と改めて下さり、十字尊号(帰命尽十方無㝵光如来)と六字名号(南無阿弥陀仏)を下さいました。また聖人が鎌倉に布教される時も、この寺は救世観音菩薩が姿を現され後ころだからと、往復に休んでいかれました」。
国府津といえば、小田原市国府津の海岸近くにある「御勧堂」とその石碑が思い起こされる。国府津は親鸞の相模国布教の拠点の一つであったと推測される。もう一つの拠点は鎌倉とその付近である。
無上正覚寺は後に親鸞の曾孫覚如が東国の親鸞遺跡巡拝の旅に来た時、この寺にも立ち寄り、寺名の五文字を三文字に省略して「上正寺」と改めたと『上正寺略縁起』にある。なお、『新編相模国風土記稿』には「境内太子堂縁起」が出てくるが、これは『上正寺縁起』のことを示すと考えられる。