神奈川と親鸞 前編36回

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神奈川と親鸞 第三十六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

佐々木高綱と茅ヶ崎の上正寺⑴─源頼朝旗下の勇将─

伝佐々木高綱像。和歌山県高野町・泰雲院蔵

伝佐々木高綱像。和歌山県高野町・泰雲院蔵

 茅ヶ崎市小和田の上正寺は佐々木高綱を開基としている。高綱は源頼朝の挙兵以来の勇将として、その名が知られている。源義経に従って木曽義仲を討つ戦いに参加した時の、宇治川合戦での挿話も有名である。高綱はこの時、頼朝から名を「生唼(いけづき)」という名馬を与えられて参戦していた。そしてこの戦いで梶原景季と先陣を争い、みごとに先に対岸に到着したという。『平家物語』巻第九「宇治川」に、高綱は、

  宇治川早しといへども、一文字にざっと渡して、思ふ所にうちあぐる。鐙踏んはり、
  つ立ちあがり、宇多の天皇に八代の後胤、佐々木の三郎秀義が四男、
  佐々木の四郎高綱。宇治川の先陣、

と名のりをあげたと記されている。
 高綱はその功績によって各地に領地を与えられた。それは周防国・因幡国・伯耆国出雲国・日向国などの諸国にあった。頼朝が重源(ちょうげん)を助けて東大寺の復興にあたった事業では、材木の切り出しに手柄があると賞賛された。相模国での高綱の館は、現在の横浜市港北区鳥山町にある鳥山八幡宮付近にあったとされている。また愛馬「生唼」もその近くに馬頭観音として今でも祭られている。なお平家滅亡後、平清盛の娘で安徳天皇の母であった建礼門院は大原の寂光院に入った。これは『平家物語』でよく知られた話である。その建礼門院亡き後の寂光院院主は、高綱の娘が務めている。
 高綱は建久6年(1195)に高野山大悲金剛院で出家し、家督を息子の重綱に譲った。その後は各地を巡ることが多かったとされ、各地に高綱の由緒が伝えられている。建保2年(2014)、信濃国筑摩郡で亡くなった。現在の長野県松本市である。同市には高綱が建立したという浄土真宗・正行寺がある。そして茅ヶ崎市小和田の上正寺も高綱開基として今日にその伝統を受け継いでいる。

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